食卓


高石さんについて思うこと

 書いてもらったことについて、色々思うことがある。別に僕はブロガーというようなものではないつもりなので、わざわざ返事みたいな記事を書くのはどうかなと思いつつ、なんか色々思い出すことがあるので、自分のために書いておこうと思う。そもそもこのブログは、カウンセリングを受けようかなと思っている方に向けて書かれている。「え!?」と思う人もいるかもしれないけど、そうだ。
 カウンセリングを受けることは危ない。僕だったら、余程信用出来ないと、見知らぬ人のところに行って、自分の話など出来ない。カウンセラーがちゃんと僕の話を聞かなかったら絶対に許せない。だから、こういう人ですと自分の輪郭を色々な形で描いているものでもある。こういう感じで聞きますっていう。

 食べ切れれば先に進み、食べ残せばその席から立てない。そういう食卓というものがある。
 僕はそういう食卓についたり、人をつかせたりしている。美味しい料理は罠にもなるし、糧にもなる。それは食べる人間次第。振る舞う側は、振る舞うからには全て食べてもらいたい。食べ残す方が悪い。僕にとっての人間関係はそういうものだ。とても厳しく、悲しく、たまにとてつもない幸福感も味わえる。そして出来れば食卓につき続けたい。もし食卓を用意することになってしまったら、自分が出来る最高のものを振る舞いたい。

 平均化訓練は素晴らしい食卓だ。一生懸命に食べている。稀に一緒に食卓につける人もいる。それは本当にごく稀なこと。それは暇な人間にとっての最高の暇つぶし。暇つぶしというと価値がないようにとる人もいるかもしれないが、最も高貴なことだと思う。

 食卓から離れたと思いきや、ずっとそこで出されたものの続きを味わおうとすることもある。カウンセリングの先生への態度がそれだった。離れても、ずっとその人の模倣をしていた。模倣を繰り返して、どうにかそれそのものを自分の中に発生させなければ気が済まない。こんな幸福な洗脳状態があろうか。飼われていたときには味わえない、自由な洗脳状態。そこでもがいて、カウンセリングと催眠誘導の技術を磨いた。先生は大勢の前で催眠誘導をする。それもただ決まりきった誘導をするわけではない。その場にいる人たちが持っている性質、感覚、人生のテーマを捉えて誘導する。他の人がそんなことをやっているのは見たことがない。先生は普通の催眠術師ではない。今見直すと拙いものだったが、初めてのロフトプラスワンでやった誘導はそういうものだった。150人にそれが出来るかという僕の挑戦だった。
 僕はまだ先生の食卓についているのだろうか。自分では分からない。席を立てるのはカウンセリングを辞めたときかもしれない。

 この前友人ともこういう話をしていた。知らない間に洗脳が起こっていることがある。文体や語り口、その内容が全く同じだったりする。しかも、その当人は気づいていない。僕自身はそれほど惨めなことはないと思う。そうなっていることを理解して、それをどうにか習得するために進めていくのなら良いのかなと思うし、大切な人にはそれを伝えなければいけないと思っている。

 ルソー君は僕にとって大切な人になってしまった。彼にとって幸か不幸かは分からない。勝手にそうなってしまったのだから、すまないが、僕の洗脳的なメッセージを受け取って、どうにかそれを受け流したり、自分のものとしたりして、なんとかやってくれと思っている。逃げることは自由だから、危なくなったらすぐに逃げて欲しいし、好きなようにして欲しい。決して、洗脳されてこうなったなんてことにはならないで欲しい。

 というのも…以前、自分も洗脳を受けて、鬱に真っ逆さまに転げ落ちたことがある。逃げないと死ぬと思った。でも、その相手のことが好きで仕方がなかった。逃げようと思って去ろうとしたら引き止められた。僕は黙って去った。それは失礼なことだとは分かっていたが、そうしないと逃げられなかった。その人の目を見ただけで、僕の身体は固まるほどだった。
 こんなことを逆の立場で他人にしたくない。でも、うっかりしてしまうかもしれない性質を持っていることも分かっている。また、逆の立場でも、同じことが起きている。周りから見て洗脳をしている側も相手から逃げられないのだ。

 こういうことは至るところで起こっていることだと思う。特殊なことではない。恋愛、会社、稽古事…。人間にとっては大変なことだ。でも、なったらなったで仕方ないよね…と楽観的にも捉えている。人が人を求めるのは仕方ないことだから。僕を洗脳してくれた人たちはどうしているかなと思いつつ。

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