学ぶことについて


野口晴胤さんの平均化訓練に行ってから、学ぶこととはなんだろうかと考えることが多い。
二十代半ばでカウンセリングを学ぶためにある先生の弟子みたいなものになった。ただ憧れるがままに、先生と同じことが出来るようになりたいとそばに居続けた。薄給と長時間の労働であっても、何も疑うことなく働き続けた。カリスマ性のある人物の表も裏も知りながら、どうにかその技術を身につけたいという一心であったように思う。
そのときに似た憧れのようなものをその後初めて感じている。ただ美しいと思い、何かにつけて思い出してしまう。もしその人だったら、今はこうするはずだろう。そんな思考が勝手にされてしまって、勝手に身体がそう動いてしまう。

結局、先生の技術の中の僕が得たいと思っていたものは、先生を離れてスカウトやナンパ、催眠術をし続けたときに得ることが出来た。別れてからは毎日先生の姿を夢に見た。自分でカウンセリングをするようになって、しばらく経ったときに夢に見ることはなくなり、ふと思い出すことも少なくなった。
しかし、学ぶことについて思いを馳せれば、こうして思い出すわけだから、大きな影響を与えてもらったことには変わりはないということだろう。

しかしそれはとても非効率的な学び方であったと今では反省している。人生に一度はそういうことがあってもいいだろう。しかし、二度とあってはならない。生きるということに対する目的のなさ、寂しさ、宙ぶらりにされた感じがカリスマ性のある人物に自分を惹きつけてしまう。

かといって、対立してもいけない。先生の持っているものを受け取れる状態である必要がある。自分の今まで得た技術と照らし合わせながら受け取ろうとすることほど愚かなことはない。ただ教えてもらうがままに受け取り、それを自分の身体に流していく。そうすることはとても難しい。それまでの自分を保とうとすれば、先生に反発をすることになる。受け取り方を微妙にでも間違えれば先生に依存する。そして、質問ばかりを繰り返すことになるだろう。

質問をすることほど愚かなことはない。
それは「どのようにでもいいので、僕を救ってください」というメッセージでしかない。
質問をしそうになったとき、依存しかけていることに気がつかなければ、そのまま何もない泥沼の中にずぶずぶと沈んでいってしまう。
僕もカウンセリングの先生にはたくさん質問をしていた。先生に気に入られるために、自分が分かっていると分かってもらうために、先生との関係性を築くために。全てが不自然な発話だった。視野が狭くなっているときにはそんなことには気づかない。若い人でも、年をとった人でも同じことだ。質問をしている人はいつも醜い。
教える側が教える気があれば、力を出し切って学ぼうとしている人にはすっと身体が近寄って、教えるべきことを教えてしまうものだ。それは僕が人に何かを教えるときもそうだ。

質問はしない。ただ見るだけ。見るのは一瞬でいい。その後は、思い出すがままにし続けて、見出される必要だと思われることをし続けることが、質の良い学びをするのに必要なのかなと思う。

学ぶことについて」への2件のフィードバック

  1. ys52

    はじめまして。いつも楽しく読ませて頂いています(全ては読めていませんが)。高石さんの考えには非常に興味があります。これからもよろしくお願い致します。   ※自分のブログにリンク貼らせて頂きました。ご報告です。

    返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


This blog is kept spam free by WP-SpamFree.