音と孤独


石井満隆先生に舞踏を教えて頂いた。

ワークショップの後、ふとしたときに手を洗いながら水の流れる音を聞き、その音に乗ったり、逆らったりするように手を洗っている自分を発見した。
外を歩いているときには周りに流れている音、突然現れる音を聞くようになった。

今まで、それらが聞こえていなかったわけではない。聞き方を知らなかった。

石井先生に教えて頂いてから、先生の動画を何十回と見続けた。何度見ても発見がある。ワークショップの前にも、どんな先生なのだろうと見ていた動画だが、そのときには何も分かっていなかった。へぇ…という程度のもので、自分には先生の動きを鑑賞する感性が備わっていなかった。今でもあるかどうかは分からないが、先生との八時間の時間の中で自分の奥深くに何かが染み渡ったのだということを感じた。

帰った後には泥のように眠った。それからはずっと先生の動きが日常の中でフラッシュバックしてくる。それらは全て特別な動作ではない。単純な動作なのだ。

先生には「音に乗り過ぎている」と僕の踊りについて指摘して頂いた。音に乗る。今までも僕は周りの音を聞いていた。聞いていたが、それが音としてあることを知っていただけで、音がより質感のある、人に何らかの変化を促すものとしてあちこちに存在しているのだということを知らなかったのだろう。音の流れに乗った自分は死んでいた。街を歩いていると、自分が生きているのだという実感が増した。

カウンセリングのときも相手の声のトーンを聞いていたが、読み取れる情報はもっと多くあったのだということを知った。目の前の人間から流れ続ける音。その音に簡単に乗ってはいけない。いかに乗らないか。そのことを思っていると、ワークショップで皆が一緒に踊っているのをじっと見ていた石井先生の姿が思い浮かんだ。僕は踊りながら、さっきまでは踊っていた先生が立っているのを見て、何をしているのだろうとそのときは思っていた。

てっきり踊りとは周りと一体化することなのだと思っていたが、そうではないのかもしれないと思っている。何でもそうなのかもしれない。もともと自分は周りと一体化出来ないことに悩んでいたが、何かに心血を注いできた人たちに出会うと彼らは一体化していない。流れの中を自由に掻い潜るように存在している。

舞踏家の石井満隆先生、平均化の野口晴胤先生の姿を見る機会に恵まれて、寂しさや孤独の意味が僕の中で変わり始めているのを感じている。

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