「絶望の時代」の希望の恋愛学


12月28日にトークイベントをする。
男女素敵化大会議
「愛の授業」のイベントが電子書籍化された『愛のキャラバン』が更に本になった『「絶望の時代」の希望の恋愛学』の出版記念イベントだ。

僕は登壇者だが、男女が素敵になることにそこまで関心はないかもしれない。僕はただの観察者だ。他人や社会を変化させることには関心がないように思う。だけれども、こういった場で宮台さんとお話が出来るということが楽しみで仕方がない。

日常を過ごしていると、様々な人が歩いているのが見れる。自分自身もまた、一人の人間として、一日を過ごしている。その一日が満足出来るものなのかということを思う余裕があるのは幸せなことだ。また、それから、眠る前に満足出来る一日だったと思えたのなら、それはとても幸せなことだ。

振り返ると、「愛の授業」では、性愛によってどうにかして自分自身の一日を満足出来るようなものにしようとした試みを宮台さんにぶつけさせてもらったように思う。果たして、性愛は一人の人間の人生を満足出来るものへと導いてくれるものなのだろうかという問い。
それはナンパであれ、どのような出会いであれ、人生の中で通り過ぎる一点でしかないのではないか。

その一点にどれだけ集中して、どれだけ豊かな時間に出来るかどうかは、その一点を通過する人間が日常をいかに過ごしているかによる。それが引きこもりでも構わない。どんな日常でも構わない。自分の一日にかける集中力の問題だ。仕事を忙しくこなしている、周りから充実していると思われる人間が良いセックスをするとは限らない。

カウンセリングのクライアントもそうだ。悩みの質は、その人の生活の表面的な質とは関係がない。誰もが羨むような生活をする人の悩みよりも、誰もが羨むことはなさそうな生活をする人の悩みの方が素晴らしく、その後のその人の飛躍的な変化がある場合もある。というより、そういうケースの方が多い。映画のような逆転する主人公の物語というのはいくらでもあるのだということをクライアントから教えられる。

これは完全に僕の趣味だが、深く悩む人が好きだ。そういう人がクライアントとして目の前に現れたとき、カウンセラーとしてその人の目の前にいられることを光栄に思う。この人のために今まで鍛錬してきたのだと思える。そういうときには、自分の身体から自分自身が消えていって、目の前のクライアントが身体に満たされていく。それは互いが互いに向き合おうとしたときに素晴らしい快楽となる。僕はその瞬間を求め続けている。それはナンパや恋人との付き合いの中でも幾度か体験したことでもある。
自分自身を捧げるためには常に場が必要だ。それは他人であることもあるし、単純に空間であることもある。そういう場を探し求めて、その場に身を投じることは心地良い。

「愛の授業」ではカリスマインテリナンパ師という大仰な肩書きであったが、今はそうではない。ただのカウンセラーだなと自分のことを思う。毎日、僕の生活とは関係のない一人の人の話を聞いている。それを聞いて、人間の様々な生き方を教えてもらう。そうして毎日を過ごしている。ナンパ師であったときよりも、もっと多種多様な人たちのことを知ることが出来たように思う。今度のイベントは「これだけナンパをしてきました!」と宮台さんに報告をしに行くのではないということは確かだ。

「希望のない社会の幸福学」は個人的にはあまり上手くいったイベントとは言えない。「愛の授業」をもう一度しようとしてしまったのかもしれない。話すことは特にないのに、のこのこと出て行ってしまったように思う。どんなものも本当は一回きりしか出来ない。

今回は話したいことがある。自分がカウンセリングをしていて、どうにも出来なかったケースだ。それにどういった可能性があったのかということを知りたい。それは人間に対する謎として、僕の中にあり続けている。このイベントを糧にして、もっと良いカウンセリングが出来るようになることを期待している。

因みに「愛の授業」の前はこんなことを思っていた。

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