鞍馬山


鞍馬山に行った。ここはレイキの創始者である臼井甕男が瞑想をして天啓を得たという、レイキ発祥の地としても知られている。今回、僕は鞍馬山に何かを求めていた。一体どんなことが自分の心身に起こるのかと期待していた。

鞍馬行きの叡電の窓の外には北に上るにつれて雪が降り始めていた。鞍馬に着くと雪が重く降っていた。寒かった。淡々と駅から鞍馬寺まで歩き続けた。周りには二人組で観光している人が多かった。早くパワースポットと呼ばれているところに行きたかったので、彼らを追い越しどんどん登っていった。そこに行けば、自分の心身の状態が確実に変わり、悩んでいたことへの答えが出るのだと思っていたのだ。鞍馬寺についた。いい感じだが、南禅寺に初めて行ったときのような強烈な感じはなかった。寺から出て、さらに先に進もうとした。が、なんとなく振り返ると、寺の前の広場が気になった。人が集まって写真を撮っているのが見えた。寺の前に戻ると石の組み合わせによって円の模様になっているものがあった。パワースポットとされている魔法陣だった。

魔法陣はその寺の前にあったのだ。僕はその魔法陣に向かって宇宙から降りてくるエネルギーとやらに鈍感だったようだった。魔法陣には人だかりが出来ていた。皆、その魔法陣の真ん中に立って写真を撮ったり、立ったままどんな感じがするかを同行者に伝えたりしている。並んでいるし、真ん中に立つのはなんか嫌だなと思って、端っこに立ってみた。立って、寺の反対側を向いた。そこからは遠くの山が見えた。どうやら自分は焦っているらしい。自分の中に周囲のものが入り込む余地がないように思えた。それでも来てしまったのだから仕方がない。先に進むしかない。その先には大杉権現社という瞑想する場所がある。その場所に行こうと思った。

今でも思い出すと寒気がする。誰もいない山道を歩いていくと、杉がたくさんある場所が現れる。その杉の間をさらにまた歩いていくと大杉権現社というという建物がある。ここは山の中だ。静かなのは当然だ。それでもこの場所は一際静かだった。その建物の中に入ると、ベンチが四つほど並んでいた。僕は折角だからとそのベンチに座って、少し目を閉じた。急に外の風の音が強くなった。ビュウビュウと風が吹いている音が聞こえた。ゾッとした。外に出てみると、吹雪いている。僕は山というものに全く慣れていない。突然きつくなった風の音を聞いて、ここは山なのだということを初めて認識した。遠くには太陽の光があった。だけど、僕がいるところには吹雪があった。寂しさとともに恐怖を感じた。ここで引き返すかどうかを迷っていた。真っ白な雪景色、風、雪、静けさというものがこんなに恐ろしいものだと感じたのは初めてだった。同じ自然の中と言っても、代々木公園をちょっと散歩するとか、そういうことじゃないのだ。進むことにした。

木がぐらぐらと揺れる音が聞こえた。熊が出るからこの中には入らないようにと書かれた標識があった。また恐くなった。僕は恐がりだ。こんな普段は皆が観光に訪れる場所で吹雪いたくらいで怖がっているのだ。また少し止まって進むかどうか考えた。なんだか奥に行けば行くほどみぞおちの辺りをぐっと掴まれるような感じがするのだ。それは僕がただ恐がりだからなのか、そういう場所だからなのか分からないが、さっきよりも躊躇しているのは事実だった。周りには誰もいないし、何もない。山道の雪景色が広がっているのみだ。ナンパ用語で地蔵というものがある。声をかけたいけどかけれなくなったとき、人は動けなくなる。そうして声をかけられないままになることを、地蔵のように動かないという意味で地蔵と呼ぶ。僕は地蔵だった。ここは街ではない。誰も僕の姿を見ていないし、誰も僕を拒絶はしない。断られることもない。そういう環境の中で人は地蔵になるのだ。一体僕は何と戦っているのか。今度は帰ろうかと思った。これより先に進んだら、もう引き返せない。そのまま鞍馬駅と山を一つ挟んで反対側にある貴船神社の方に降りていかなければいけない。悩んで立ち尽くしていた。そのとき、肝心なところで逃げてしまう自分のことを思った。ここで逃げたらこの先の人生でもそうなるに違いないという思いもあれば、冷静に、先に進んだら危ないかもしれないから帰る方が懸命だという思いもあった。こういうとき、人は勝手に内省をし始めるのだ。今ここで起こっていることと、生活の中で起こっていることが、関係ないようで関係あるようで、関係があるのかどうかは分からない。でも、関係があるような気がしてしまうのだ。実際には関係があるのかもしれない。悩んだ末、進むことにした。進んでいくと気がついたらみぞおちを締め付けるような感覚は消えていた。

先に進むと魔王殿という建物があった。なんだか落ち着く場所だった。そこにもベンチがあり座ることが出来た。また座ってみた。今度は目を閉じずにいた。その建物にはなぜか上の方に斜めに鏡がかけてあった。その鏡に近づいて、斜め上を見ると自分の姿が映るようになっている。なぜここに鏡があるのかは分からない。だけど、ここに自分の姿を映してもいいものだろうかと考えさせるようなかけ方だった。…見てみた。自分の姿が映っていた。とんでもなくやつれた顔をしているかもしれないと思ったが、しっかりとした顔つきだった。そうか…と特に何も思うことなく出発した。そこからは淡々と山道を下っていくだけだった。道路が見えていた。吹雪はやんで、晴れていた。道路の脇にある川の流れの音が聞こえる。車も通っている。先ほどまでの緊張感はなく、ただ山道を歩いているだけだった。

帰ってから、鞍馬山のことを突然思い出す。その瞬間瞬間の景色と、そのときに自分が感じていたこと。僕はそのあと、京都にいて、少しだけ仕事をして、他は数人の友人と会ったり、あとは一人でカフェなどに行って、ぼんやりしたり、本を読んだり、文章を書いたりしていただけだった。
新しい出会いを求める…僕の中からそんなものは完全に消えてしまっている。知らない人と出会って、知らない人の価値観を知って、そこから新たに自分のことを発見する。確かにそういうことは今まではずっと考えていたが、そんなものは必要だったのだろうか。今は少数の友人、そして仕事の関係で出会う人と会うだけで、殆ど人と話さない日が続くこともある。世界を広げることよりも、その閉じた世界の中の方へと意識を向けて、自分の中に入っていって、思い浮かぶことに身を任せることを大切にしている。そうして自分に集中しているとき、考えることは夢にも出てきてしまう。特に危惧していたことは夢に出てくる。そのとき、自分のやり方は間違っていたんじゃないかとか、そんなことを思う。でも、既にやってしまったことは仕方がない。数日後、そのやってしまったことに対する結果が出た。結果は喜べるものだった。良かったと一安心する。正しい答えは誰に聞いても分からないのだ。一人で考えて、行動して、結果を待つしかない。或いは、正しい答えを求めようとしたときに、迷いは生じるのかもしれない。そのときに全身全霊をかけてその選択をとったのならば仕方がない。それによって自分がどうなったって仕方がないと思える。悩んでしまうのは、そのとき選択した自分の中に何らかの曇りがあったからではないか。もしそのことについて考えるならば、その曇りについて意識を向けないといけない。向けて、曇りがあったのなら反省する。それだけだ。自分の、自分だけで完結している小さな世界。それをいかに自分で見つめて、その中に満足を見出せるかという問題だ。

鞍馬山は修行の場所だと言われる。自分を社会に向けてどう打ち出して、どうお金にするか、どう満足を得るかということを、社会の中で生きていると考える。そうしているとどんどん自分を消費されるコンテンツにしてしまう。また、最悪なときには、コンテンツとして消費してくれる人を自ら探しに行ってしまう。それは不幸なことだと僕は思う。そういう考えはなしにして、目の前のことをやるしかない。やっていく中で、人に必要とされたのなら、その役割を全うすればいい。

鞍馬山」への2件のフィードバック

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