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「小さな組織の未来学」コミュニケーションについてのコラムのこと

 「小さな組織の未来学」でコラムを書かせていただいています。ブログを書いていなかったので、告知がてら思ったことを。
 コラムはたくさんあるので、ご興味のある方はこちらをご覧ください。今までのものの一覧が見れます。

 あるときある場所で隣に座っていた知らない人と話すことになった。他人と話さないと。そう思ったとき、これらのコラムのことを思い出した。相手の言葉、動きなどに意識を向ける……か。そうしてみると、自分と相手が離れていくような感覚が表れた。意識を向けるのをやめるために、自分の気持ちに注意を向けた。初対面の人と話すことに緊張していた。僕はこの緊張感が好きだ。すると、ふっと意識がその場に戻って落ち着いた。

 観察すれば、会話の外にいるような気がして申し訳なさと傲慢さとが葛藤する。没入しているとそれでよいのか、相手に失礼はないかと気になる。また、漫然とその場に馴染んでしまっている自分を発見すると、早くここから抜け出さなければ何か自分が固定された存在になってしまうのではないかと焦り始める。仕事や割り当てられた役割に応じるなら場所は決まっているが、それらがないとき、どの場所にいることが良いのかはわからない。

 ふと人が子どものような顔をしているのを見ることがある。何かを作っているとき、ただ何をするというわけでもなく歩いているとき、ときには話をしているとき。そのとき、最も自然な場所にその人がいるような気がする。
 自分にもそういうときがある。「子どもみたいだったよ、今」と人から言われることがある。ほんの一瞬のことだが、そのときには何かに触れていたような気がする。そのときの状態で過ごし続けられれば、きっと様々な不安や、余計だと思いながら気になることから解放されるだろう。しかし、そうはいかない。出会う人や出来事によって、また何かを考えてしまうだろう。

 コミュニケーションの技術を知れば悩みがなくなるなんてことはない。むしろ、新しい悩みがどんどん生まれてくる。それが新しければ、自分は何かを得たということで、同じような悩みがまとわりついているのなら、まだ得ていないということなのだろう。特に、思い出すだけでも嫌だった人のことを、初めて出会う人であるかのようにフラットに思い浮かべられたときに、何かを得たような気がする。少しずつ自分や他人について、知らないことを知っていき、引っかかることが少なくなっていく。そのためには自分や他人の動きの細部に目を向けることが大切なのかなと思う。