月別アーカイブ: 2014年12月

余計なこと

 余計なことをしない、というのがこの一年常々思っていたことだった。日常生活の中でも、仕事でも。

 カウンセリングで僕が一つ余計なことをすると、クライアントもまた一つ余計なことをしてしまうことになる。そぎ落とし、そぎ落とし、最後は仏像のようなものになりたいと、数年前から思っていた。何もしないということは難しい。それは何もせずにぼんやりとその場にいることとは違う。何もしないでそこにいるためには、目の前にあるものを感じていたり、自分の心の中に浮かぶことを捉えていたり、自分の身体の様子を味わえていたりする必要がある。内観の豊かさが自ずと何もしないことに繋がっていくので、何もしていないときの方が自分を駆け抜ける情報の量は多く、集中力を要する。
 これは一朝一夕には育まれないものだということを実感している。毎日の自分の生活の中で、自分の中に現れる感覚を掬い取り続けることがそのためのトレーニングになっている。

 この一年でその感覚を養うことを教えてくれたのは平均化訓練と柾での食事と真崎さんに教えてもらった炊飯と出汁取りだった。

 平均化訓練では、自分を先に進ませることはいかにして可能になるかという問いを与えられた。身体的な訓練であるが、毎日同じように真面目に取り組んでもなかなか進んだ気がしない。かといって、好きなときにやるという感じだと徐々に進むことを忘れてしまうような感じもある。自分自身に対する密度のようなものをいかにして上げていくか。そんなことばかりを考えさせられた。
 ただ外を歩くときも、その動きが自然であるどうかを思うようになった。その空間に溶けて、どちらかというと目立たないようなものであるような自然さ。座っていたり、動いていないときも同じように。そのための身体的な訓練は、先の内観的な感覚にも繋がる。

 柾の真崎さんに教えてもらった炊飯と出汁取りは、シンプルな方法であるだけに、自分の味の感じ方が問われているような気がする。毎日味わいながら、もう少しこんな感じが欲しいと、この感じがない方がいいとか、微調整をしながら続けてみた。
 真崎さんは、平均的に美味しいものを作ることよりも、その日の味を味わうということが豊かさではないかというようなことを言っていた。その意味は未だ掴みきれてはいないが、使った素材の様子を知り、余計に足したりはしないことなのかなと思う。またそこにあるものを否定しない。否定しないで、捉えようとしたときに、その素材が活きる方法が自然に見つかるのかもしれない。
 やればやるほど味覚の難しさを知る。味覚はイメージが先行し易いのか、口に入れたものを味わっているつもりが、自分が想像したものを味わっていることが多い。美味しいと言われていると美味しいと思おうとしたり、反対に天邪鬼に美味しくない部分を探そうとしたり…そういうものがなくただ味わうということをすることの難しさ。

 平均化訓練も料理、どちらも観察が肝であると思っている。行動は、その観察の精度に従って自ずと生まれる。どう動こうかと考え込んでいるときは上手くいかない。考え込んでしまったときには、目の前にあるものと自分の気持ちをもっと丁寧に見つめてみるようにしている。そうすると、自然とどうすれば良いかが見つかる。

 全て、思考のノイズを取り除こうとしているのだろうか。何も考えない。パッと感じたものをそのままにしておく。これは単に仕事のため、ということでもなさそうだ。ノイズがないと、ふとしたときに、目の前のものをそのままに肯定できる優しさのようなものを感じられる。その瞬間をより多く作っていきたいと思っているだけなのかもしれない。

トランスとは何かを知ることができる本/スティーブン・ギリガン『ジェネラティブ・トランス』

 ミルトン・エリクソンに直接師事した催眠療法家スティーブン・ギリガンの著書『ジェラティブ・トランス』を読んだ。

 ここでは、催眠療法をするにあたっての大切な感覚である、トランスとは何かということが書かれている。自らのトランスへの入り方、そしてトランスに入った後の自分の心身のコントロールの幅がそのセッションの質を左右する。ギリガンはいかにトランスに入り、トランス下でいかに自分を観察するかという彼の抽象的、身体的なイメージを、自らの言葉で丁寧に本の中で説明している。

“丈の長い黒のコートを着て、ポケットに手を突っ込んだまま、しばらく町を歩き回っていた高齢のユダヤ教指導者のお話があります。ある人が、彼がどこに向かっているのか尋ねると、彼は、ポケットから両手を出して、持っていた一切れの紙を見せました。一枚には、私は神であり、私はすべてである、私は愛そのものである。もう一枚には、私は、ここでは、ほんのしばらくの間存在する、一片のホコリに過ぎない。と書かれていました。”

 本の最後に書かれた寓話である。
 トランスに入ると、神か、ホコリ、どちらかになってしまうことが多い。一方は冷静さを欠いた自己肯定であり、一方は自傷的な自己嫌悪である。神でも、ホコリでもあるような自分であれば、心地良く生きていられる。それはトランス下での自分自身を観察し続けられたときに成立する。そういう心身の鍛錬法が書かれている。

 少し難しいので、誰でも読めるというものではないかもしれないが、腕のあるセラピストの抽象的な思考を知ることのできる稀有な本。

眼差し

 この数日、SMクラブで見た女王様の視線がフラッシュバックする。彼女が自分で演出したショーを見つめる視線。そこにある感情が見えないというよりも、多くを含み過ぎていて、それが何であるかということを判断することのできない視線。そこに含まれる感情を示すことは、恐らく自分自身の感情を表現することに過ぎないような視線。そうやって他人の感情を反射してしまう視線がある。

 自分がやる講座はどれも好きだけど、カウンセリングWSが一番好きだ。いかに他人の話を聞くかということを好きなだけ伝えられる。他人の話を聞く存在は世の中に点在している。カウンセリングのやり方を伝えるというような形をとっているが、点在しているそうした存在たちの感覚を自分なりに感じ続けた結果を提示したいと思っている。

 人の前にいれば、考えが思い浮かぶ。恥ずかしいとか、思い通りにしたいとか、よく思われたいとか、自己嫌悪とか…そういうものを自分の中に収める術が点在する存在たちの中にある。虚勢でそれらを誤魔化した目はその辺にいくらでもあるが、それとは違う。浮かび上がる考えを自分の中に収めた上で他人の前にいる人の目には、その目を見る人の感情が反射して映る。そういう目だけが他人そのものを見ている。