月別アーカイブ: 2014年8月

目に映っているものを描くこと/『脳の右側で描け』

 この数週間、『脳の右側で描け』という本に従って、絵を描いてみた。

 本の指示に従うだけで驚くほど絵が上達する。それは描き方というよりも、いくつかの自分自身の頭の使い方を変えることによってなされる。

 例えば、見ているものに対する言語的な認識を捨てること。「これは手、これは目…」と、普段から知らないうちに、見ているものをある特定のカテゴリーのものとして認識してしまっている。全てをただの線と認識して、書き写していくと、紙の上には見たままのものが描き出されていく。上手い絵が描けるようになる、ということではない。外から見ればそうだとも言えるが、自分自身に起きることはそうではない。見えるようになる。つまり、それまでは自分の既に知っているカテゴライズのもとに物事を認識していたのだということが、紙の上に描くプロセスの中で具体的に示されていく。気を抜けば、見ていないのに、見たつもりになっているものを描いてしまう。気を抜かずに、見たままのものを描き出そうとしていくと、目が純粋に光として受け取ってくれていたものを手が描き出し始める。描き方ではない。そこで見方を知ることになる。

 左手で描くこと。果たして左手で描くことは出来るのか。絵心もないというのに、左手で描くという大胆さを持つことは難しい。しかし、やってみると驚くべき結果が現れる。左手で描いた方が、美しい。意図的に美しく描くということではない。ものの在り様を左手は自分自身の感受性をもって捉えてくれる。右手は上手く描こうとする。また、既に持っているカテゴライズをどうにか適用しようとする。左手はただ見えているものを認識しようとする。そうして左手で描くとき、意識をさらに細かくする快楽を、自分自身が追い求め始めているのに気がつく。見えているままの世界の中に没入しようとする。数十分、その作業に没頭した後に周りの世界に目を向けると、全く別の世界が広がっている。そこにものがあり、人がいたという感じである。自分がいかに、自分で作り上げた、記号として人やものを認識する世界の中に生きていたかということを知る。

 その結果、目の奥が開くという体験をした。何が開いたのかは具体的には知らないが、目の奥が開いたと感じた。アレクサンダー・テクニークを目に使ったものである『アイ・ボディ』という本がある。僕もこのノウハウを催眠の誘導の際に取り入れている。目の構造、仕組みを知って、より良く目を使うというものだ。
 例えば、目を閉じて、光の方へと目を向けると、目の奥に光が当たっているのを感じる。人間はこの目の奥、網膜に当たった光を認識している。だけど、見ようと力んでしまったときには、目の表面に何かが映っていると思い込んで見ようとする。実際はそこには何も映っていないが、そうすることによって、目の使い方を誤ってしまう。目の奥に映し出された映像を丁寧に認識することで楽に、鮮明に見ることが出来る。しかし、緊張すればするほど、見たいものに必死に焦点を合わせて見てしまう。或いは、緊張して、他人やものを拒絶しながら見ようとするために、目の前のものというよりも、自分が想定したものだけを見てしまう。そうすると盲点だらけになる。
 この『アイ・ボディ』で目の使い方はかなり訓練していたが、実際に描くという行動の中では、具体的に自分がどれだけ見えていないのかを知ることが出来る。また、より繊細に見るための集中力はどのように向上していくのか、そうしたことを知ることが出来る。

 対人関係でも、目の前の何かに取り組むときでも、悩むときには見ていない。想定したもの、そうに違いないと思い込んだものを見ている。
 それとは反対に、自分の手を描いていたとき、手を愛おしいと感じた。何か理由があるわけではない。ただ手の線と影の濃淡をとっていただけだ。形をとっていただけなのに、理由もなくそれを愛おしく、美しく感じた。
 他人を物扱いするという言葉があるが、それは本当に物扱いしているわけではない。もし本当に物扱い、ただ形として認識しようと集中すれば、理由なく愛することが出来る。愛することが出来ないのは、そこに自分自身の思い込みを重ねるからだろう。見るとは、思い込んだようには見ないということなのだ。しかし、思い込んだようには見ないようにすることは難しい。いかに目の前のものの形をとれるかどうかに没頭すると、思い込んだように見ないことが可能になり始める。

 友人の耳を描いていたときに、ポーズをとって止まってくれている友人の身体が少し震えているのに気がついた。それはその人の自分が見る対象とされたときの息づかいとも言えるべきものだろう。繊細に息づく感情が、その形の中に見え始めた。しかし、それすらも、僕自身の価値観、感情の投影なのかもしれない。それでも、形の奥に何かが見えたような気がした。思考せず、ただ形をとることに没頭すると、自分が見えていなかった何かが見えてくる。描くことで、自分の価値観、思い込みを通過して、その先にあるものを見出す方へと進んでいく。

 参考までに、以下は僕がこの数週間で描いたもの。

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初めて描いたとき。

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本の指示に従って描いたとき。

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篠田千明さんの舞台『機劇』で役者でモデルの辻村優子さんを描いたとき。篠田さんには「スケベ過ぎる!」と言われた。絵には性質が出るのかもしれないと思い始める。

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勇気を出して初めて左手で描いたとき。自分の性質が右手で描くよりも出ているように思う。線が繊細になった。

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このノウハウのワークショップ、アートアンドブレインに参加した小野さんと互いの耳を描いたとき。

トーベ・ヤンソン『誠実な詐欺師』

“「信じてください、アエメリンさん。人間というのは、自分がやすやすと騙せる相手を好きになりはしないものです」”
 主人公のカトリが、アエメリン・アンナに言う。

 カトリは計算をすること、人の欲を見抜くことが得意。アンナは殆ど家を出ず、世間を知らない裕福な老画家である。カトリは人々がアンナからお金を多くとろうとしていることを露わにし、アンナが人々から騙される対象になっていると告げる。アンナは人間不信になり、絵が描けなくなり、のんびりとした性格もきつくなっていく。

 カトリは従順な名前のない犬を飼っている。その犬をアンナが手なづけようとし、名前もまた勝手につける。カトリにだけ従順だった犬は、自由を知ったのか、森の中で狼のようになってしまう。カトリへの従順さはなくして、最後にはカトリに襲いかかる。

 一方、カトリには弟がいて、彼の純粋さを愛している。この小説の中で仕掛けられる詐欺は弟のためのものだ。弟もまたカトリを大切に思っている。
 
 物語が進むにつれて、益々険悪になっていくカトリとアンナ。アンナがカトリに言う。
“「あなたにはなにかがある…絶対的なものを求めすぎる。それじゃ行きづまってしまう。」”
それを受けてカトリが言い返す。
“「絶対的なものを求める。まさしくあなた自身じゃない。その欲求こそがまっすぐあなたを目標へと導くのよ。」”
絶対的なものに対する二人の見解の違い。その後にカトリが去って行き、アンナに齎されるものは何か。小説の最後に示される。

 この小説は実家近くの喫茶店で見つけた。静かで瞑想的な喫茶店。ちょうどカトリのような聡明そうな女性が一人でやっている。彼女の表情は少し強張っていたが、店内は人の背筋を正させる不思議な緊張感に満ちていた。少し窮屈で、だけど店を出ると、自分が変わっているのが分かる。その静寂に難なく溶け込めるようでないと、彼女の友だちになることは出来ないだろう。人が集まり続ける小さな喫茶店には店主の孤独が満ちているように思えた。

 安らぎの場所はなく進んでいくしかないのだなと、良い意味で諦めさせられる小説だった。

「ラポールと身体知」はナンパ講習ではないけれども…

 「ラポールと身体知」はナンパ講習ではないけれども…実際はそう思って参加される方が多い。参加理由で多いのは、地蔵を克服したいからというもの。一体室内で行われるワークショップでどうやって地蔵を克服するつもりなのだろうかと、その参加理由を読むたびに困惑していた。はじめは、地蔵ならとりあえず外に出て、誰かと一緒にでも声をかければいいのにと思っていた。しかし、それでもそういう人たちが講座に来るのだから、納得してもらえるようなコンテンツを提供しなければならない。

 地蔵とは、声をかけるというストレスが自分の許容量を越えているために、自動的に硬直してしまう状況である。硬直すると「なんて声をかけたら良いか分からない」とか「わざわざやる意味はあるのだろうか」とか、そんなことを考え始める。ストレスの対処法を知らなかったり、そもそも日常的にストレスが溜まり過ぎて少しのストレスでさえ許容出来ない場合はそうして地蔵になり易い。
 他人を見て知り合いたい、話したいと思うのは、反応だと思う。じっくり考えて起こるものではない。その反応に対してブレーキがかかる。誰にとっても、他人と話すことはストレスだからだ。ブレーキがかかると、「なんて声をかけたら良いか分からない」などの考え、言葉で更にブレーキをかけ始めてしまう。その考え、言葉自体には意味はない。

 世の中にはストレスを感じると攻撃的になる人もいる。何も考えずに声をかけ続けられる人というのは、その反応が起こっている場合が多い。そういう人は、声をかけるということにおいては悩むことはないだろう。しかし、声をかけるというストレスに対して起きた自動的な反応に過ぎないために、同じことの繰り返しにしかならない場合が多い。

 地蔵を克服したいという理由で講座に来た人は、自分自身の日常生活を見直すことになる。そもそもナンパをしたいと思ったきっかけは、きっとナンパをしたいということ以外のところにあるはずだからだ。自己嫌悪、他人への劣等感、虚無感はその人の生活のサイクルの中で感じられるものだ。決して未知の人から与えられるものではないし、その解決もまた日常の中にあり、未知の人から与えられるものではない。よくよく自分のことを見つめてみると、自分が本当に関心を持っていることが何であったのかが分かる。

 とはいえ、当人がナンパをしたいと思ったことは事実なのだから、それはそれで尊重したいとも思う。講座の中で、「人前で緊張したらダメだ」と脅迫的に思っていた人に対して、「緊張しないとダメだよ」と伝えたことで、ナンパが出来るようになったというケースもある。本人はナンパが出来るようになったと思っているのかもしれないけれども、僕としては、気楽な人付き合いをするコツを身につけてもらいたいと思って言ったことだ。

 生きている中で何かに心惹かれるということはとても大切な機会だと思う。惹かれたなら、それを達成するべく自分で何かしらをやってみる。その中でまた別のものに惹かれたら、そちらに向かう。出来ないのは、本当は関心がないからかもしれない。それなのに、初志貫徹でやらなければいけないとなると自己嫌悪になってしまう。自己嫌悪になれば、自分のパフォーマンスが十分に発揮出来ない。
 気楽に興味があることをしていくのが良い。成功しても、失敗しても、どちらの場合も同じところに留まらず、成功したのならまた別の関心のあることを、失敗したのならまた別の方法を試すか、それが思い浮かばないのなら、自分が気持ち良く関心の持てることを出来るように。講座で僕が出来ることはそのようなものだと思っている。

 自分では他人にナンパを教えることはしないと決めている。それをすることが僕自身の停滞を生んでしまう。上手くいったことはやめて、違うことをして自分の関心を広げたい。しかし、講座に申し込む方がナンパを念頭に置かれることが多いので、参考にしてもらうためにこの文章を置いておこうと思う。