月別アーカイブ: 2014年7月

『心のメッセージを聴く』/自分と他人を実感から捉える

“「今、それを話しているあいだ、からだの実感がどうなのか、お気づきになっておられますか?」
とアンは「からだ」に焦点を当ててきた。
「胸全体が緊張して苦しい」
「その実感と、ただ一緒にいる時間を、とってみましょう」”

 江坂さんから度々フォーカシングから僕のカウンセリングの手法を思い出すという話を受けていた。この本も江坂さんが読んでいるのを教えてもらって、読んでみた。この本はフォーカシングというカウンセリングの手法をカウンセリングの歴史とともに紹介しているもの。誰でも読める分かり易いものだと思う。

 カウンセリングは贅沢な時間だ。他人といるのに、自分自身にフォーカスされる時間。大切な人との関係は、そういう時間が互いに訪れる。ただの他人でありながら、そうした時間を作り出すことに尽力する技術。それがカウンセリングだ。

 いつでも自分自身の中に流れる感覚、感情、イメージがある。“その時間とただ一緒に時間をとる”ことは難しい。スマートフォン、周りのこと、他人のこと、同じところを堂々巡りしている悩み事にせわしなく意識を向けていると、そうはならない。他人のそれと一緒にいることはさらに難しい。自分がその時間をどれだけとっているかが大切で、自分は忙しくしているのに他人のそれと一緒にいようとするなんてことは出来ない。

 他人のことに対して結論を出す必要はない。しかし、他人に集中し続けている。そのときに相手に流れている感覚、感情、イメージを捉えようとする。大切な相手になら、また相手もまたこちらを大切に思ってくれているなら関係はそのように成立する。
 カウンセリングはそれを赤の他人にする。そのとき、一体カウンセラーの意識はどこに向かおうとしているのか。クライアントに対してはもちろんだが、人間一般というものになのだろうかと思う。

 解体屋的なことをするなら、これにエリクソン的な催眠の要素が必要になる。またエリクソン的な催眠をするなら、フォーカシング的な心身への感受性が必要になる。また催眠をするなら、様々なイメージが実感とともに自分の中で浮かび上がるのを捉えることも必要になる。他人を感じ、接しているときには、色々な感覚が折り重なっているものだと感じた。

一つの時間に留まって

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 この前、江坂さんと二人で、一人のクライアントに対して草書体と誘導をしていたとき、この曲が流れてきた。

 環境の中で圧迫されて、緊張が積み重なり、自分自身の感情を感じられなくなっていくということは誰にでもある。程度の差はあれ。緊張の仕方、感情の失い様によっては、そのまま自分を疑うこともないまま心地良く生きていけることもあるし、周りとの不和などで生きていく自信を失うこともある。街の人々の歩みを見れば、どこがどの程度緊張し、感情はどのように失われたり、強烈に噴出してしまっていたりするかは分かる。それでもこの人たちはこうして人通りの多い街の中を歩いている。僕のもとに来てくれるのは歩き辛くなった人か、その歩みに疑問を持ち始めた人なのだろうと思う。
 自分がどのような表情をしていて、どのように緊張しているのかは、なかなか分からない。怒りや悲しみに満たされた表情であっても、本人にとってはそれがいつも通りのものだから。

 草書体と催眠誘導をしているときに、クライアントが歯を食いしばりながら呻いていた。身体は震えている。僕もその感覚に合わせて、集中している。僕自身も、彼の中から放たれようとしている感情に同調して、目は見開き、涙が込み上げて来る。この感情を、自分の心と身体は受け止め切れるだけのものであるだろうかと、痙攣する自分の心身から意識を離さないようにする。彼の胸に手を当てたときに、すっと何かが放たれたような感じがして、身体が少し伸びて、表情も穏やかになった。
 そのときにこの曲が流れているのが初めて聞こえた。閉じ込められ続けた感情が放たれたときには、時間の流れが急にゆっくりになって、止まっているようにも思える。

 この曲が収録されているアルバムはキース・ジャレットが病気療養から活動を再開したときに出したものだと知って、なんとなくそういう感覚が流れているものなのかなと思った。

 それからずっとこのアルバムを聴いている。
 他人と接触しているときに痙攣してしまうときは、自分の中で葛藤が起こっている。その人の存在を肯定したいという思いと、こうなって欲しいという欲望とがぶつかっている。そこで欲望が勝ってしまえば、下劣で安直なものになってしまう。完全な肯定というものはあり得ないかもしれないが、少なくとも自分の中で感じられる、こうなって欲しいという欲望を全て捨てられたときに、良い関わりが生まれるように思う。

 アルバムを聴きながら、あのときに起こっていた自分の中の雑な感情の動き、身体の動きを見直している。丁度江坂さんとフォーカシングの話をしていたこともあり、自分が自分に使うフォーカシングはいつも仕事の後にこのように行われているなと思った。思い出して、少し身体も動かしながら、そのときの感覚を見つめ直して、そのときの時間に留まって、より繊細なものに修正し続けている。それが出来ると次にはさらに集中することが出来るようになる。

食卓

高石さんについて思うこと

 書いてもらったことについて、色々思うことがある。別に僕はブロガーというようなものではないつもりなので、わざわざ返事みたいな記事を書くのはどうかなと思いつつ、なんか色々思い出すことがあるので、自分のために書いておこうと思う。そもそもこのブログは、カウンセリングを受けようかなと思っている方に向けて書かれている。「え!?」と思う人もいるかもしれないけど、そうだ。
 カウンセリングを受けることは危ない。僕だったら、余程信用出来ないと、見知らぬ人のところに行って、自分の話など出来ない。カウンセラーがちゃんと僕の話を聞かなかったら絶対に許せない。だから、こういう人ですと自分の輪郭を色々な形で描いているものでもある。こういう感じで聞きますっていう。

 食べ切れれば先に進み、食べ残せばその席から立てない。そういう食卓というものがある。
 僕はそういう食卓についたり、人をつかせたりしている。美味しい料理は罠にもなるし、糧にもなる。それは食べる人間次第。振る舞う側は、振る舞うからには全て食べてもらいたい。食べ残す方が悪い。僕にとっての人間関係はそういうものだ。とても厳しく、悲しく、たまにとてつもない幸福感も味わえる。そして出来れば食卓につき続けたい。もし食卓を用意することになってしまったら、自分が出来る最高のものを振る舞いたい。

 平均化訓練は素晴らしい食卓だ。一生懸命に食べている。稀に一緒に食卓につける人もいる。それは本当にごく稀なこと。それは暇な人間にとっての最高の暇つぶし。暇つぶしというと価値がないようにとる人もいるかもしれないが、最も高貴なことだと思う。

 食卓から離れたと思いきや、ずっとそこで出されたものの続きを味わおうとすることもある。カウンセリングの先生への態度がそれだった。離れても、ずっとその人の模倣をしていた。模倣を繰り返して、どうにかそれそのものを自分の中に発生させなければ気が済まない。こんな幸福な洗脳状態があろうか。飼われていたときには味わえない、自由な洗脳状態。そこでもがいて、カウンセリングと催眠誘導の技術を磨いた。先生は大勢の前で催眠誘導をする。それもただ決まりきった誘導をするわけではない。その場にいる人たちが持っている性質、感覚、人生のテーマを捉えて誘導する。他の人がそんなことをやっているのは見たことがない。先生は普通の催眠術師ではない。今見直すと拙いものだったが、初めてのロフトプラスワンでやった誘導はそういうものだった。150人にそれが出来るかという僕の挑戦だった。
 僕はまだ先生の食卓についているのだろうか。自分では分からない。席を立てるのはカウンセリングを辞めたときかもしれない。

 この前友人ともこういう話をしていた。知らない間に洗脳が起こっていることがある。文体や語り口、その内容が全く同じだったりする。しかも、その当人は気づいていない。僕自身はそれほど惨めなことはないと思う。そうなっていることを理解して、それをどうにか習得するために進めていくのなら良いのかなと思うし、大切な人にはそれを伝えなければいけないと思っている。

 ルソー君は僕にとって大切な人になってしまった。彼にとって幸か不幸かは分からない。勝手にそうなってしまったのだから、すまないが、僕の洗脳的なメッセージを受け取って、どうにかそれを受け流したり、自分のものとしたりして、なんとかやってくれと思っている。逃げることは自由だから、危なくなったらすぐに逃げて欲しいし、好きなようにして欲しい。決して、洗脳されてこうなったなんてことにはならないで欲しい。

 というのも…以前、自分も洗脳を受けて、鬱に真っ逆さまに転げ落ちたことがある。逃げないと死ぬと思った。でも、その相手のことが好きで仕方がなかった。逃げようと思って去ろうとしたら引き止められた。僕は黙って去った。それは失礼なことだとは分かっていたが、そうしないと逃げられなかった。その人の目を見ただけで、僕の身体は固まるほどだった。
 こんなことを逆の立場で他人にしたくない。でも、うっかりしてしまうかもしれない性質を持っていることも分かっている。また、逆の立場でも、同じことが起きている。周りから見て洗脳をしている側も相手から逃げられないのだ。

 こういうことは至るところで起こっていることだと思う。特殊なことではない。恋愛、会社、稽古事…。人間にとっては大変なことだ。でも、なったらなったで仕方ないよね…と楽観的にも捉えている。人が人を求めるのは仕方ないことだから。僕を洗脳してくれた人たちはどうしているかなと思いつつ。

意識の速度

 最近、色々なことが一段落したという感じがある。カウンセリングのやり方、講座の進め方、自分の稽古の仕方、対人関係のあり方…とはいえ、それらは決して固定されることはない。何か自分の中でそれらを葬り去りたい欲求に駆られることがある。そういう時期なのだろうと思う。

 自分の生活は他の人と比べれば暇過ぎるものだ。暇だから空白の時間が多い。その時間をいかに埋めるかということに意識を注いで生きてきた。それは引きこもっていたときからもそうだった。人生の中でも一時期、忙殺されていたことがあったが、そのときは生きている心地がしなかった。しかし、暇過ぎるというのも難しい。毎日どう生きていけばいいのかということを自然と考えてしまう。

 講座に来てくれる人の中に、特別な意識の速度を感じさせる人がいる。それがこの引きこもりや、それに近い、社会的なつながりの少ない人たちだ。彼らも暇なのだろうか。そのせいか、何だか特別な意識の速度を持っている。もちろん、彼らには自信はない。だけど、ひとたび手を触れ、肉体的な接触をしてみるとその意識の速度とも言うべきものを、僕にぶつけてくる。こういうとき、この人の中には人間が生きているのだということを感じる。

 この意識の速度の取り扱いについて、今後は考えていかなければいけないような気がしている。速い人ほど孤独になっていく。遅さは周囲との怠慢な関係に馴染ませてくれる。速いと息苦しい。その圧迫感を自分の中で消化出来なければ、そのまま人生は終わってしまう。
 最近、引きこもりのときと同じ状態になった。そのときは毎日胸の詰まり、苦しさを感じて生きていた。それがどのように解消されたのか、そのプロセスを見直すことが出来ていなかったせいで、このまま死んでしまうのかと思った。人生には、各々に繰り返されるテーマがある。そのテーマの核心に出来事が迫らせる。それは繰り返されて、同じような発作を起こさせる。忙しさはその発作が起こる時期を延ばしたり、忘れさせてくれたりする。

 僕はまだその発作が消えた人を見たことがない。忙しさによって延期された人か、発作を経験し続けて強くなり続けている人か。繰り返されるテーマが消える方法がカウンセリングの中にあるのではないかと思い込んでいたが、そのようなものは今の時点ではないと言える。ただ発作が起きたときに自分を取り戻す術はカウンセリングの中にある。意識の速度を身につけていくことは、自分や他人のその発作への対処、それも今後の成長に繋がるような対処のためのものになる。

トランス状態について

 誰でも美しい動きをすることがある。美しい動きになりかけて、いつもの考え、執着を手放さないこともある。美しさは訓練されればいつでも引き出されるものでもない。そのときに集中すべき対象に集中したとき、自分を偽らずに素直さ、誠実さを発揮したときに引き出される。

 トランス状態とは、そういうことが出来たときに訪れる状態だと思う。瞑想を毎日している人だからと言って入れるとは限らない。毎日同じように瞑想をして、トランス状態っぽい動きを習得しているに過ぎないこともある。僕は誘導する側、観察する側として、目の前の人がトランスに入ったか、入っていないかを判断しなければいけない。筋肉が緩むとか、呼吸が深くなるとか、外面的に見分ける方法はいくつかある。しかし、それだけでは、トランスっぽいものでしかないものを誘導する側として良しとしてしまう可能性がある。

 極めて個人的な感覚の話なので、これが絶対というものではないし、僕がそう思っているということの話でしかない。トランスに入った人間を前にすると、自分の心が開くのが分かる。その人自身が入ったことのないトランスに入ると、僕は鳥肌が立って、全身が小さく震える。なんでかは分からないけど、ある時期からそのように感じるようになった。

 しかし、果たして、トランス状態はその人自身の日常を変える力を持つのだろうか。僕はこのことについて、関心を持ち続けている。トランスに入ったからといって、その人のそれ以降の動きが変わるとは言い難い。それなら、ドラッグをよくしている人は、余程鋭敏な感覚を身につけているということになってしまう。しかし、現実は違う。その状態に入ったからといって、その人の日常の動きの質が必ず変化するわけではない。

 他人のことは分からない。自分のことを考えると、トランスに入ったときは誰にも話しかけられたくない。入るように誘導してくれた人からもだ。それは自分が一生の中で体験出来なかったかもしれない感覚が訪れた貴重な瞬間である。いつもそのときは心地良い感覚の中に入っている。
 誘導をして、すぐに動く人もいる。誘導をするのは骨が折れる。同じ誘導をして欲しいと言われても、目の前の人の新しい状態に関心があったからこそ出来た誘導であるから、一度しか出来ない。嫌々やって出来ることではないから。講座でも、トランスに入ったにも関わらず動きそうになった人に対して、「今は動かないで!」と強く言うこともある。どうしても、その状態を味わって、自分のものにして欲しい。

 トランスは心地良い。娯楽になる。娯楽として消費してしまうことも出来る。美味しいものを食べて、一瞬固まる人もいれば、ちょっと味わってすぐに話し出す人もいる。それは人の趣味の話だけど、僕は止まるタイプだ。

 いや違う。
 僕がカウンセリングを学んでいたとき、先生の誘導を受けたときに、トランスに入ったことがあった。そのときに目を開けて、僕はすぐにいつも通りに動き始めた。先生は強い口調で何かを言った。そのときにショックを受けたことを思い出した。自分の人生の中で豊かな感覚を持つことと、いつも繰り返している日常と君はどちらが大切なのかと突きつけられたのだった。

 普段繰り返している日常は、大事じゃないようで、とても大事にしている。それが自分だから。でも、非日常的な状態も感じたい。娯楽として。
 僕はあのとき、(うるさい人だなぁ、気持ち良かったんだからいいじゃん)と少し不機嫌になったように記憶している。

 先生の目には強い真剣さと、目の前の人間の不誠実さへの悲しみがあったように、今思い出してみると感じる。それは今の僕が勝手に作り出したものかもしれないけど。

 生きている中で、日常よりも、豊かな感覚をとることを覚え始めたのは一体いつなのだろうか。
 そして、今でも日常をとることもある自分がいることも感じている。