月別アーカイブ: 2014年6月

誘惑

 レイさんが僕について書いてくれた。
 嬉しいので、ちょっと思ったことを書こうかなと思う。

 もうこの年にもなるとそれなりに出来ること、持っているものがあって、それらによって人間関係が次々に築かれていく。感性や感覚でふと仲良くなるということは難しい。そういうことが起きるということは稀有なことだ。

 僕が出会ったナンパ師の中で大きな影響を受けたのはしんじ君と宮台さんとレイさんだ。
 しんじ君も以前に僕のことを書いてくれたことがある。

 僕は人と仲良くすることが難しい。仕事ではないときはかなり自分勝手だし、その人の振る舞い、言動が美しくないと思ったら、もう目に映したくもないし、声も聞きたくなくなってしまう。特にナンパは欲に駆られた行為であるだけに、この泥水の中で美しくあり続けている人は稀だ。
 二人とも、このナンパに関係した世界の中では頂点にいると思う。経験人数とか、そういうものではなく、人間的魅力という点で。僕のクライアントから聞く限り、実際に彼ら二人の講習のクオリティは高い。
 ナンパ講習などは誰でも出来る、というのは間違いである。誰でも教えたつもりにはなれる。しかし、それなりのクオリティのものを提供するのであれば、特殊な魅力がなければいけない。レイさんがナンパをしていると周囲の空気が一変するのは事実だ。本人の持つ緊張感、自信が動きに表れる。その動きは、周囲の空気を変える。レイさんはそんなことには関心がないと書いていたが、そういうことは確実にある。その人がいると空気がどんよりするとか、だから近づきたくないとか、逆の現象なら誰でも経験があると思う。

 レイさんと二人で講習をして、60人ほどの人が集まってくれたとき、僕は勝つつもりでいた。自分にどれほどのことが出来るのか、レイさんにどれほどのことが出来るのかを知りたかった。そのように互いに尊重し合いながら、力を十分に発揮することが出来れば、良いイベントが出来る。結果的に良いものが出来たから、関係性が続いているように思う。

 生きているうちに一度は会ってみた方がいい人が世の中には存在する。一目見たり、少し話したりするだけでもいい。それによって、自分の生き方を考えさせられるような人。そういう人は大きな偏りとともに、それを自ら自覚する潔さを持っている。偏っていることに開き直った人間は見るに耐えないが、自分はそうであると認めて、変えられるところは変えながら、変えられないところは変えられないまま大切に置いている人は、他人を魅了する。

未熟な愛

 最近、ずっとモテ本の原稿を書いている。早くこれを書かなければ、自分の人生が進まない気がしている。終わったらまた別のことにとりかかれるだろう。終わらない限りはそのことばかり考えてしまって、どこか思考の自由を奪われているような感じがする。

 かなり前に書いて赤を入れてもらった原稿を読んでいると、なんて愛のない文章だろうかと思って書き直している。モテ本だから、モテなくて悩んでいる人にガツンと指摘するために書くというコンセプトだった。しかし、そういうものを読んでいると苦しくなる。
 世の中には成長することを阻害され続けた人たちがいる。ナンパ講習で集まってきた人たちの中には、たくさんのそういう人たちがいた。メールの書き方さえ分からない。こんなことを書いたら失礼だろうというようなことを平気で書く。僕はそういうメールをもらう度に我慢して返事をしていた。我慢をしていたのだ。

 我慢をしている時点で自分のキャパは越えている。僕にはどうにも出来ない相手だということだ。我慢をするよりも、どうしてそのようなメールを書くに至ったかを想像しなければいけない。そうしてしまう人生を過ごしてきたのだということをもっと想像しなければいけない。

 足し算を知らないまま、かけ算をやらされてしまった人が社会にはたくさんいる。そのまま、ちょっとしたミスをいつもしながら、かけ算が出来るフリを覚えて、なんとか生きていくことだけは出来ているという人がいる。本人も分かっている。だけど、今更足し算のやり方を聞くことは出来ない。寧ろ、逆転のために微分積分を覚えようとしてしまう。
 引きこもりだってそうだろう。足し算が出来ない。でも、かけ算が出来ないと社会には入れない。しかし、家族は彼に足し算を教えることはないだろう。それよりも、早くかけ算が出来るようになって欲しいと願いながら、しかし失敗をさせないように家の中に閉じ込めている。
 多分僕も彼らと同じところがある。世間では当たり前のことなのに、知らないこと、出来ないことがたくさんあるし、今以上にあった。

 彼らに僕は「とりあえず、足し算をやろう」ということを言い続けた。果たしてそれは正解だったろうか。彼らの多くは足し算をしなかった。代わりに、微分積分を覚えにまた別のところに行った。もちろん微分積分が出来るようにはならない。行く先々で、その教えてくれなかった相手を恨むことになるだろう。

 足し算が出来ないのは、自己否定の繰り返しの中でいたからだろうと思う。
 そういう人は肯定を求めてしまう。自己否定しかなかった人間が肯定を与えられると嬉しい。しかし、一時の肯定でハイテンションになっても、それはすぐに戻ってしまう。肯定は与える側のエゴだ。自分と似ているから他人を肯定すると自分が慰められる感じがするとか、自分の前では気分良くいてもらいたいからとか、そういったエゴに根ざす行為だと思う。

 自己否定は細心の注意を払ってでも味わわせてはいけない。この他人への細心の注意がどれだけ出来るかが自分のキャパなのだろうなと思う。より細かく他人を見ることが出来れば、その人が進んでいる姿を見つけられる。しかし、自分の意識が細かくなければ、その前進を見つけることは難しい。直接的に、こうした方がいいよと指示を出すことしか出来なくなる。
 自己否定は味わわせてはいけないが、安易に肯定もしてはいけない。肯定は人をダメにする毒薬にもなり得る。その安易な方法に手を出せば、洗脳や自己啓発になってしまう。
 自己否定や自己肯定ではなく、今自分はこうである、という認識をいかにフラットにしてもらえるかに力を尽くすことが、愛情なのかなと思う。そのためにはたくさんの観察をしなければいけない。毎日何してるんだろうとか、今までどんな人と付き合ってきたのだろうとか、家族とはどうしてるんだろうとか…。

 僕自身が大学生の頃、いつも授業を休む度に先生に診断書を持って行った。ある先生は「ふーん、パニック障害なんだ」と皆の前で言った。それからその授業には行けなくなってしまった。ある先生は診断書をじっと見つめて「一人暮らしなの?」と静かに聞いた。そのときに、誰にも理解してもらないと思い、自己否定しかしなかった自分が、この人の前ではきちんと現実を生きたいと思ったことを思い出した。彼は否定もしなければ、肯定もしなかった。ただ僕のことを想像した。

壊れ易さ

 より繊細に、正直にと思って色々なことに取り組んでいると、以前は気にならなかったことが気になるようになる。それによって幸せを感じることもあれば、苦痛に思うこともある。街の中で人とただすれ違うだけでも苦しくなることもある。他人の焦り、欲望が、すれ違いざまの多少の乱暴さによって、自分の身体に伝わってくる。

 ひと月ほど前に舞踏の稽古に行ったときに、以前のような壊れ易い感じがなくなって、その代わりに強さを手に入れたように見えると指摘してもらった。薄々自覚はしていたが、より強い方へと向かおうとしている自分がいたから目を逸らしていた。しかし、動きはそれを表現してしまう。特にそれを見る目を持っている人の前では必ず露わになる。

 強くなることがいけないのか。それをもって本人が、自分は進んでいっている、生きていると思って、幸せを感じられているのであれば、それはそれで構わないとも思う。自己嫌悪によって停滞することよりも、進むこと、日々の生活の中での自分の変化や新しい発見を大切にした方が良いと思う。

 ともあれ、自分は壊れ易さを隠して強くなろうとしていたことをはっきりと自覚してしまった。そうなると嘘をつくことは出来ないが、半年ほどかけて手に入れた強さであっただけに、捨てることが難しかった。それからというもの、他人の強さが気になって仕方がない。自分が捨てられていないから、他人の強くあろうとする様子を見ると身体に重くのしかかるものがある。それははじめに書いたように、街の中で他人とすれ違うときにもある。

 しかし、人が強くなれるはずなんてない。どう進んでも、何を手に入れても、その都度弱さとは向かい合うことになるものだと思う。感じられる強さは一時の安寧、気休めである。昨日、洋服屋でma+のカーディガンのようなものに袖を通したときにそんなことを感じた。肌触りが柔らかく微かで、繊細な流れるようなシルエットを持っていた。そこには壊れ易さがあった。やっぱりこういう感覚が好きだと思ったとき、ふと気持ちが軽くなったので買った。