月別アーカイブ: 2014年5月

速度

 成長することの存在を認めることは難しい。それは実際にあるかどうかは分からない。

 毎日稽古をしていくと見えてくるものは、自分が知らぬ間に無理をしているということ。様々な動きをしながら深く自分の中に入っていくと、自分が無理をしている部分が見えてくる。誰に促されたのでもなく、勝手に無理をしただけなのに、その無理をやめることは難しい。こうしたら無理がなくなるかな…と、身体の動きや意識の向け方を変えて心地良いものにしていく。こういうことを成長と呼ぶのならば、成長なのかもしれないが、自分が勝手に無理をしてきたものを落としているに過ぎない。

 例えば、歩くということ。歩くスピードは皆速い。自分の身体にどれくらいのスピードが良いのかと聞きながら歩くと、あまり速くは動けない。なかなか身体は動かすことを許してくれない。身体はそれくらいにゆっくりと動いているのに、自分の思考が無理矢理に動かしてしまっていることに気がつく。自分の思考が作り出すスピードを捨てて、じっと待ってみると、身体のスピードと合って自然と動き始めたりする。それで動いてみると、まだそれでも速かったと思ったりもする。その繰り返し。

 こうしたことを続ける中で、自分のそうした感覚の繊細さを阻害するのは自己嫌悪であることを思った。自己嫌悪になり、他人の目を気にしたりすると、思考が身体を硬直させたり、速めたりし始める。勝手に身体が無茶苦茶に動き始める。

 今までの講座の中では、他人にこうした方がいいとか、指示を出し過ぎていた。変化のための方法を提示してしまうと、その人のスピードをおかしくしてしまう。それよりも、その人を進ませていないものを当人が自ら知るための状態を作る必要がある。本当に相手のことが分かっていたら、そうやって状態を変えてもらうだけで、何かを提示して自己嫌悪にさせたり、自分に依存させるようなことにはならないはず。そうさせてしまった時点で、こちらが停滞を作ってしまっているし、自らも停滞している。そして、停滞が作られたところには人が溜まり続ける。

カウンセリングを受ける

 尾谷幸治さんの主催するめんたねのカウンセリングのワークショップに行ってきた。ワークショップでは、10時から17時まで、半日もかけてカウンセリングを教えている。僕はその日のクライアント役として参加した。

 幸治さんとは催眠、エリクソンなどのことをたまに会って話し合ったり、一緒に飲みに行ったりもする。彼もそう思っているかもしれないが、彼と僕とはカウンセリングの仕方というか、使っている感覚が違うように思う。彼はカウンセリングやコミュニケーションに強い興味を持ち続けている。そういう意味では同じではある。

 彼のカウンセリングはとても丁寧に行われる。その点において、僕は彼のことをとても信頼している。カウンセリングは相談をしようと心を普段よりも開いた他人を扱う。少し間違えただけでも、人の一生に悪い影響を与えてしまう。そのことを弁えずに人の話を無闇矢鱈に聞いてしまうのは非常に危険なことだ。それはカウンセリングだけでなく、日常の会話でもそうだろう。それを知らずに会話をすれば、相手を傷つける。さらにまた、自分もまた知らないうちに傷ついていく。そのときには興奮していて自覚出来ないことが多いが、他人を傷つけているとき、自分もまた傷ついている。

 僕がクライアントになり、受講者の方がカウンセリングをしてくださった十分間を映像にとって、それを皆で見直した。

 受講者の方は、初めてその会に参加した方だった。初めてだから、どのようにすればいいか分からない。だから、ただ聞くことに専念されていた。それがとても良いカウンセリングだった。頷き方や声の調子が、僕の調子と外れているところはあったが、そんなことは構わない。僕が集中して自分のことを話すのを妨げるものではなかった。
 何だか、これがカウンセリングなんだなと、久しぶりにクライアントの立場になって思った。ただ話を聞くだけだから、とても地味なものだ。だけど、一生懸命に様々に頭に思い浮かんで来るものを話していると、自分の中でたくさんの考えてもみなかった言葉が口から出ていくのを感じた。

 その後、自分がカウンセリングを受けている映像を見ていると、はじめは嫌だったものが、クライアントである自分の語りに引き込まれていき、一生懸命に生きているなと我ながら思った。そのとき、映像の中の自分は、僕のクライアントになった。思い描くものと連動する、特徴的な手の動き、頻繁に動く眼球と首、開いたり閉じたりする胸。決して整ったものではないが、それを美しいと思った。また、自分にはかなり多くの改善すべき点があることも知った。

 受講者の方が真摯に聞いて下さったおかげで、自分の中に眠った様々な記憶が蘇った。

 昼食を挟んで、別の受講者の方に僕の蘇った記憶について扱って頂くことになった。
 その人の目を見た瞬間に僕は硬直した。緊張した人特有の、物のように僕を扱う目だと思った。その前に話を聞いてもらって久しぶりに蘇った記憶は、柔らかく、美しいものになる可能性も、腐ってしまう可能性もある、繊細なものだった。怖くて、フリーズして動けなくなった。自分の癖が出る。苦笑いだ。言いたいことが言えないときに僕は苦笑いをする。しようとするのではない。それが止められなくなってしまう。このまま進めば、わけの分からない話をし始めて、自分がパニックになることは、経験として分かっていた。また、純粋な気持ちを捨てれば、自分が怪物になることも分かっていた。今まで何度も怪物になってきた。ナンパをするとき、またイベントでナンパについて話すとき、他人に攻撃をされたとき、狂ったようにニヤニヤして他人を攻撃していた。それが引きこもりからナンパを始めて身につけた自分を守るための、それまでは持っていなかった偽りの強さだった。

 怪物が動き始めるのを感じつつも、受講者の方にカウンセリングを受けることは出来ないと伝えた。伝えて、少しのやりとりの中で、止められない苦笑いをしながら、自分の中から狂気と攻撃性が漏れ出ているのを感じた。そうしていくと、硬直した心身がトランス状態に入り始めるのを感じた。
 心身が緩み、自分を自由に動かせる状態。僕は恐らく、幼いときから、この硬直から逃れられずにいた。自分の弱さが苦境にあってさらけ出されていることが怖い。だから、硬直して、感情のコントロールを失いながらも身を守っていた。

 その後幸治さんにカウンセラーをして頂き、自分の幼いときからのパターンを認識することになった。幼いときの偏りが、何度も繰り返されて、さらに偏っていく人生。誰にとってもそういうものかもしれない。その偏りが、僕を停滞させたり、暴力的に進行させたりしてきた。その停滞も暴力的な進行もまた、自分なのだなと思いながら、徐々に偏りではない方向性へと動くことを覚え始めていることも認識した。

 人生は進んでいる。
「何もしなくてもクライアントは六割の確率で良くなる。上手にカウンセリングが出来たら、それが七割五分になる。カウンセラーがやるのはその一割五分でしかない。」という内容のことを幸治さんが休憩中に言った。僕は一方で、何かをすることによって、その確率が低くなることもあることを思った。

 どちらにせよ、クライアントの人生は進んでいる。そのことを肯定することが何よりも大切なことだ。

 誰もが悪意を持って何かをするわけではない。もしあったとしても、それは本人の意思とは関係なく、自然に起きている。今存在している自分としてしか他人と接することは出来ない。その場で繕うことも、技術的に上乗せすることも出来ない。しかし、それはそのままであり続けるわけではない。他人との衝突は、僕に変容の恩恵をもたらした。それと同じだけ、相手の糧にもなるものだと思う。

 そして、今回特に強く決心したのは、他人の話を聞き続けるのなら、誰よりも自分をクライアントとして扱う勇気を持たなければいけないということだった。一人の人間として存在している以上、今持っている自分の歪みや偏りからは逃れられない。それは必ずクライアントに影響を与えてしまう。しかし、だからといって完全になくなった状態があるのかどうかは今の僕には分からない。
 必ずしもカウンセリングという形ではないにしても、いつでも何かをするとき、心を開いた、傷つき易いクライアントとして、目の前のものに取り組むことは出来る。そうすることが自分のカウンセリングを磨くための方法であると思った。

ナンパ講習

 その日のカウンセリングは早く終わった。遠方からナンパをするために東京に旅行に来たというクライアントだった。きっとナンパがしたいのだろうと思い、一時間ほどナンパ講習をやってみた。ナンパ講習をするのは半年ぶりだった。

 人に無暗に話しかけてしまうのは、トラウマに対する反応だろう。話しかけることによって、自分が本来相対するはずのことから逃げている。そうして逃げ続けることによって、また更に自らのトラウマに対する反応を強化する。つまり、人を信用出来なくなり、また違う新しい人間を求め続けるようになる。これは、宮台さんがいくつかの本にも書かれている“ナンパ師の逆説”というものだろう。上手くいけばいくほど、一人一人の他人との関係の特別さは失われ、目の前の他人を特別に捉えられなくなる。他人を見る目、感性が粗くなる。
 そのトラウマによって欠落した感情は、欠落した感情によってなされる行動によってさらに深くに追いやられ、自分ではもう認識出来なくなる。見た感じは満足しているように見えるし、本人もそう思っているが、どことなく閉塞感が日常に漂い続けてしまう。

 講習で、クライアントには、服装や歩き方などから他人の生活をどのように推測するかということや、自分の心の中に思い浮かぶことをどのように捉え、それをどのように発話すれば相手が受け容れてくれるかということを伝えた。

 その後、しんじ君と会って話した。彼と「日本のナンパを変えたい」と語っていたことを思い出した。

 僕が変えたかったのは日本のナンパではなかった。他人を求めて、しかし、拒絶されること…また拒絶されずに受け容れられたとしても、自分の望むものは得られないという、自らの閉塞感をどうにかしたかっただけだった。

 社会の中で生きていきたいと思ったとき、引きこもりや、対人関係に難があり続けた人にとっては、ナンパが出来るようになるというのは夢だろう。だけど、それをやり続けることはかえって停滞になる。クライアントには、早くこれをクリアして、自分の感性を信じて、満足して生きていくことが出来るようになってもらえればと思った。

 僕も徐々に閉塞感から解放されつつある。友人や師と仰ぐ人、少数ではあるけれども、そうした人たちとの会話が自分を解放してくれる。異性との会話も、成果を焦るものではなく、会話そのものを楽しむものになった。結局、ナンパをしながら求めていたものはこういうものだった。随分と遠回りをしたことを思った。