月別アーカイブ: 2014年3月

洗脳/愛のキャラバン・大阪死闘編

男女素敵化計画へ向けて。印象深い夜のこと。

 今まで三度行っている宮台真司さんとの新宿ロフトプラスワンでのイベントが大阪で開催されることになった。

 「男女素敵化計画」という名前がついているが、僕にはまだ素敵とは何かということは分かっていない。
 引きこもりからナンパを始め、今はホストをしているルソー君。彼は泥にまみれて、泥水を飲み続けた。彼はネット上でツイートをする度に自らを経験豊富だと疑わない大人たちに絡まれて、それらに対して「はい。」「そうですか。」「○○さんにそう言ってもらえると嬉しいです。」と嘲笑的に対応し続けた。
 そういうやりとりを見ていると、年齢や経験などに一体どんな意味があるのだろうということを考えさせられる。

 人間の美しさとは何だろうかということを思う。それは時間や経験によって磨かれていくものというよりは、はじめからそこにあるようなものであるように思う。初めて会ったときの何も出来ないルソー君の中にその美しさはあった。
 また、美しさを持っていたように思われた人も時間とともにそれを失っていくということもある。

 僕は自分にもそういう美しさのようなものがあると思っている。それをどう害わずに大切に育んでいけるかということが生きている中での最大の関心事でもある。同じことを繰り返しているとそれは簡単に害われる。だから、周りの大切な人が同じことを繰り返しているとすぐに注意する。注意しても同じことを繰り返して、美しさが消えていくこともある。多分、自分がそうなることが怖いから、他人にも注意してしまうのだと思う。

 第一回目の「愛の授業」のとき、僕は泥水を飲み続けている真っ最中だった。ナンパなんてやめたいと泣きながら女の子に話しながらもナンパをするという客観的に見たらどう考えてもおかしい状況にあった。一言でいえば、セックス依存症である。
 最近、泥水を飲んでいない。付き合う人も少ない。美しいと思う人としかなるべく会わないようにし、見ないようにもしている。たまに、泥水を無性に飲みたくなったりもする。気が狂ったようなコミュニケーションをとって、醜い姿を露わにして、無茶苦茶に対象に熱をぶつけて、最高の自己嫌悪を味わいたいと思うこともあるが、そうしていない。それが今の自分にとって良いものかどうか、少し疑問を持ったりもするが、すすんでやりたいとは思わないのでしなくて良いのかなと思っている。

 泥水飲みの代わりなのか、自分の身体のことを知り、稽古をすることに集中していた。人間の身体は複雑で、自分の思い通りにはなかなか動かない。それをじっくりと稽古をしながら、少しずつ自分のものにしていく。それをやり始めたのも、江坂さん、葉坂さんと知り合ったことがきっかけで、そして決定的だったのが、平均化訓練の野口晴胤さんを見てしまったことだった。美し過ぎて怖かった。初めて触れたときには恐怖で身体が震えてしまった。それから、稽古の日々が始まった。去年の十一月はじめが四回にわたる講座の一回目だったから、まだ半年も経っていない。
 自分や他人の、様々な感情、思い、緊張、欲望、記憶を自分の背骨、身体の中心部で回収していく作業が続いた。こんな世界があったのか、自分の心身はこんな在り方をしていたのかという驚きとともに毎日を過ごした。

 僕はこのコースの二回目の帰り道、号泣をしている。何がそうさせたのかははっきりとは分からない。しかし、その頃、晴胤さんに胸の辺りによく手を当ててもらっていた。今から思うと、その胸の辺りの奥深くに固いかたまりがあった。手を触れられると、それがすっと溶けていった。帰る途中、家の最寄り駅に着いて歩いているとそれは始まった。涙と声にならない声が胸の辺りから溢れてくるようだった。それらが身体から安易に漏れてしまうことが勿体なくてぐっと身体全身で味わうようにした。十五分ほどだったかもしれない。その溢れてくるものは止まらなかった。その中で走馬灯のように、様々な記憶が浮かび上がってくる。トラウマセラピーでは、肉に記憶が宿っていると言われている。自分の胸の辺り奥深くの硬直が緩んで、そこから記憶が溢れ出てくるような感じだった。

 このイベントの中で僕は特別に話したいことはない。あったのは第一回目だけだった。一回目は宮台さんに十分に話を聞いて頂いた。今回は話すべき人が話せるようにしたいと、打ち合わせで提案させてもらった。そのために出来ることをさせてもらいたいと思う。
 僕は人に話すよりも、自分の中でそれらを回収していくことに関心がある。他人とは、自分では回収出来ない自分を回収させる対象ではないだろうか。自分を抑えることなく、他人に自分を回収させていく。それは洗脳でもある。一方で、自分を抑えることなく、自分に自分を回収させていくことも出来る。そういうことは自分を抑えて他人に自分を回収させることも出来ない臆病者には出来ないことであるようにも思う。ルソー君はどれだけ他人を洗脳出来るのだろう。今までのイベント、二回目、三回目には一回目のような洗脳空間みたいなのは現れなかった。今回はそういうものが会場の中に現れるのを期待している。それはある人にとってはキラキラとしたものでもあり、ある人にとっては吐き気を催すものでもあるかもしれない。

4月12日 宮台真司・男女素敵化計画第四弾/愛のキャラバン・大阪死闘編

動きの質/平均化訓練の講座に参加して

 この数ヶ月、平均化訓練の講座に参加し続けた。カウンセリング以外で、これだけ熱中出来るものに出会えるとは思わなかった。

 僕はカウンセリングをしている。大学で学んだわけではないが、先生のもとで五年ほど学び、その後もカウンセリングとは何かということを考えるために、様々な分野の人たちに師事したり、会ったりした。そうして、話すということは何なのかということを自分なりに深めてきたつもりだ。最近は特に、ボディワークとカウンセリングを繋げる試みばかりしてきたので、ボディワークという分野のものと比較して、カウンセリングをしている僕が何が出来るのかということを考えることが多かった。

 僕が出来ることは話すことと聞くこと。それは誰にでも出来ることだ。だから、自分のやっていることを保証してくれるものは何もない。例えば、マットの上で何らかの動作をしてもらう、という非日常な体験ではない。たまに分かり易い催眠誘導をすることはあるが、そうすることも最近では珍しくなった。誰にでも出来る、話すこと、聞くことを通じて、それを一つの特別な体験としてもらうために、自分が出来ることは何だろうかということをずっと考えている。

 ボディワークとカウンセリングを繋げると言っても、僕がクライアントにピラティスをやるわけではない。例えば、ボディワークの動きの中に見られる人間の様子がカウンセリングの際の観察に役立っている。それは首の動き、背骨の動きだったり、歩き方だったり…色々ある。動いてもらうとその人の状態がよく見える。そして、その状態の改善の方法が見つかったりする。この人はこの動きが苦手だから、こういう受け答えをしてしまうんだという具合に。
 カウンセリングのとき、僕は話の内容には集中していない。話すときの動きを見ている。クライアントの、他人と話すときの動きの中に見出すべき答えがある。様々に切り替わっていく僕の様子に対してどのような反応をするか。そこにクライアントの知らない、彼自身の姿がある。それをどれだけ細かく取り出せるかが僕の仕事だ。

 それを僕の仕事のやり方にしたのにはこれまでの試行錯誤がある。
 クライアントに介入をすれば、依存させてしまう。そうすると僕のもとに何度も通ってしまったり、結局のところ、自分で自分のことを解決する能力が身につかなかったり…あまり良い結果を生まない。かといって、介入をしなければいいのかというとこれも違う。当たり前だが、何もしなければ、何もならない。何もしない人のところにわざわざ人がお金を払って来る必要はない。
 僕が出来るのは観察をすることだけだ。人は見られることで変わる。或いは、変わるか変わらないかの岐路に立つ。そこでどうするかは本人の選択だ。まだ新しい自分を見出す時期ではないときもある。それを無理する必要はない。

 人をどのように見るか。どのように他人の可能性を見出すか。また、どのような節度をもって、他人と接するか。ヒントは、達人たちの身体の動きや振る舞いにある。この平均化訓練の野口晴胤さんと舞踏家の石井満隆さんは別格だった。全ての動作が、僕の計り知ることの出来ない何かで出来ていて、美しさを湛えていた。平均化訓練では、内容もさることながら、その動作の美しさを支えているものを探し続けた。

 その観察のためには、自分の身体の質が対象に近づかなければいけない。自分の身体、動きの質の変化によって、分かることがあるのだ。そのことをこの数ヶ月で学んだ。
 毎日稽古をした。深夜に一人で動きを練習することもあれば、友人とすることもあったし、日常生活では身体が美しく動くことを意識した。動きを意識すればするほど、外の景色が変わる。動きの質が上がれば、以前よりもゆっくりと落ち着いたスピードで外の世界が動き始める。その新しい世界に対する高揚感。トランス状態などとそういったことについて言っていたが、そういった状態が訪れるスピードが今までと違う。以前は新しい経験をしたときに、そういう状態が訪れていたが、稽古をすればするほど訪れる。毎日少しずつでも動きの質が変わると、少しずつ世界が変わる。そういった成長の喜びが動きの質の変化にはある。

 講座の帰り道、歩いていることの幸せを感じた。自分の身体が以前よりも丁寧に動かされていることの心地良さ。講座の中で晴胤さんがよく「何のためにやるということではない」と仰っていた。何のためというのではなく、動きの質を高めることを何だかやりたくなってしまう。そして、それを幸せに感じる。講座には色々な方が参加されていたが、他の人も、自分の日常生活の動きの質が変わっていき、毎日の自分の動作を愛おしく感じることを楽しまれていたのではないだろうかと思う。

 何だか今日は講座のあと、今までのことをふと振り返りたくなった。

意識の高い恋愛/『「絶望の時代」の希望の恋愛学』の感想を聞いて

 ある女性から『「絶望の時代」の希望の恋愛学』を読んだ感想を直接聞かせてもらった。あそこで語られているのは意識の高い恋愛だから、それをする相手を見つけるのも難しいという感想だった。

 様々な恋愛のノウハウが、本だけでなく、ネット上のコラムでも書かれてある時代だ。意識はどれだけでも高く出来るかもしれない。そうして恋愛に熱中する人の観察眼は大抵貧しいものだ。それは、目先の自分自身の幸福しか考えていないから。高い意識は殆ど全て、自分がいかに良い思いをするかというところに向かっている。これはナンパにおいてもそうだろう。いかにして相手を落とすかというところに意識を集中している。でも、それがナンパなら僕は気持ちの良いものだと思う。それは恋愛ではない。相手を物としてどう上手く扱えるかという技術だから。

 しかし、それが恋愛になると、欺瞞だらけになる。幸せになりたいとか、相手を幸せにしたいだとか言いながら、やっていることはナンパよりも技術的にも精神的にも劣る営みだったりする。恋愛好きの女の子にナンパをしているときによくアドバイスを求められ、実際にアドバイスをしていたものだ。僕はただのナンパ野郎でしかなかったが、彼女たちは相手のことを何も見ていないように思えた。何も見ていないから技術に頼ろうとする。しかし、その技術に頼ることさえも中途半端で、行き詰まると技術ではなく気持ちの問題だとも言う。自分の欲ばかりで大した技術もないのに。

 どんな相手であろうとも、『「絶望の時代」の希望の恋愛学』で語られたような恋愛やコミュニケーションをとることは出来る。その鍵は観察にある。誰もが、話しながら、弱みを表現してしまう。どんなに隙がなさそうな人でも、その隙を作らないための緊張した一瞬のしぐさによって、相手が隠そうとしているものを明確にしてしまうことがある。また、ちょっと言いかけてやめた言葉や、こちらの話をスルーして別の話を始めようとした瞬間などに相手とより深いコミュニケーションをとることのできる可能性がある。それを見逃すかどうかは、こちらがどれだけ相手を見ているかというところにある。

 しかし、揚げ足をとる準備をするように待ち構えていても、その瞬間は見逃してしまう。そのような恋愛をしようとすることも邪魔になってしまう。ただ否定も、無理な肯定もせずに、へぇというように相手の話を聞いていたら、自ずと見つかる違和感がある。その違和感を捉えた先に、その人のことをより知り、より親密になり、また自分のことも知ってもらう機会が訪れるのではないかと思う。