月別アーカイブ: 2013年12月

言葉の牢獄

立場上、色々な質問を受ける。僕の答えはほぼ決まっている。
「ご自分ではどう思いますか?」
そうすると質問をした人は自分自身に意識を向ける。僕に見据えられていた緊張した目の力は適度に抜ける。目線が少し下の方へと向き、それに伴って首が少し傾く。肩の力も少し抜ける。呼吸が一段深くなっている。
僕の身体もまた質問者の変化とともに変わっていく。身体の変化とともに感情が動いていく。答えが出るのはもうすぐだろう。目の前の人が何を考えているのかは分からないが状態が変化していっているのは分かる。その人の集中が途切れそうになると、僕自身の集中力を目の前で上げる。そうすると危うくなった自己探求の旅が継続される。
数十秒後、或いは数分後、相手は答える。
「〜だと思います。」
僕は頷く。

新宿ロフトプラスワンのイベント「男女素敵化大会議」に行ってきた。主にお客さんは、自分自身の考えに縛られて動けない状態を、新しい考えによって動けるようにしようとしている人たちだ。宮台真司さんの答えを聞こうと思って参加している。僕はときに宮台さんの話の途中に入らせてもらって、その邪魔をする。僕は会場に答えを与えたくない。宮台真司さんは強烈なメッセージを持っている。強烈なメッセージはエンターテイメントとして消化されてしまう。そうなれば、メッセージを発する人は物格化(或いは神格化)されてしまう。人格化とは対話が常にある状態だ。エネルギーのある人、体験と思考の蓄積がある人を拝んではいけない。他人を神格化する人は、自分自身が他人を物格化していることを知らない。

今回の登壇者は宮台真司さんだけではなかった。
伝説的なナンパカメラマンである福永ケージさんの女性を夢と憧れに満ちて、しかし現実に流れる雰囲気を確実に捉える優しい目。
いかに自分を捧げて他人を愛でるか、その場に入り込まんとする水嶋かおりんさんの佇まい。
僕の隣に座っていたパフォーマーであるげいまきまきさんの震えながら発せられる詩的な語り。
僕も登壇者の人たちの動きに見入っていた。

三人の言葉は身体から発せられる。
宮台さんは身体と言葉を自由に行き来する。

言葉に囚われた質問者には言葉で応答し、身体から発せられた質問には身体で応答する。
身体から発せられたときのメッセージの強さは、隣に座っている僕の心臓まで振動が伝わるような感じだ。
言葉に囚われた質問に対する宮台さんの社会学者としての回答を聞く質問者は身体を硬直させて、自己満足を味わいながら頷き続ける。彼は何も聞いていない。聞いていないから、宮台さんの言葉も加速していく。語り終えた後の宮台さんはまだ伝え切れていないという雰囲気を出されている。僕の個人的な感想では、伝え切れていないのではなく、そもそも伝わらない人間が、自己満足のために質問をしただけなのだ。この光景を見るといつも悲しくなる。神格化という物格化をされたカリスマの姿を見る。

今回、語られた話は当日の朝の打ち合わせの方が面白い内容であったように思う。宮台さんとお話をすることがいつも楽しみで仕方がない僕としては幸せなことだ。話をさせてもらって、学びを受けて、そしてたくさんの人がいる舞台では、その立ち居振る舞いを感じさせてもらうことが出来た。

しかし、宮台さんが発されるメッセージを上手く観客に届けることは出来ただろうか。そのことを反省しなければいけない。結局いつも身体のことを何度も言わなければいけない。これは聞く作法に過ぎない。呼吸を止めて、筋肉を硬直させて、うんうんと頷けば、双方向的な対話をすることは出来ない。そう言っても、また別の質問者は同じ仕草で必死に質問をしていた。
面白かったのは、目をむき出しにしてメモをとっても話を味わうことは出来ないという話をメモをとりながら聞いていた人がいるということだ。それは仕方がないのは分かっている。結局、一人一人に向き合って、今あなたはこうしていますよと伝えてなければ、なかなか自分の動作には気がついてもらえない。

僕が出来ることは僕の元に来てくれた人、一人一人と対話し、身体に触れることなのだろうと思った。カウンセリングとはそういう仕事だ。
イベント終了後、僕のところに質問をしに来てくれた人に平均化訓練の草書体をしながら質問に答えた。手を合わせて、互いに合気道で投げられる人のような動きをしていく。それは踊りのようでもある。そのときに互いの体感覚を味わい合う。
「こんな感覚で話したり、ナンパしたりするんですね!」
緊張しながら必死に質問をした人が言って、嬉しそうに帰っていった。彼がその感覚で今後何をするのかを僕は知らないが、良かったなと思った。

「愛の授業」のときを思い出した。エネルギーに溢れた宮台さんにどうしてもトークで勝ちたいと思った。物格化、神格化していた。今は人として接することが出来ているだろうか。宮台さんに限らず、自分よりもエネルギーのある人たちに会う度にそう思う。そういう困難を抱えながらコミュニケーションをとることはいつも楽しいし、相手を楽しませたいとも思う。

普通の人

今日、友人に普通の人って何なのか分からないと言われた。普通の人って何だろう。そう言われて考えてみた。

普通の人っていうのは、自分の悩みを世の中で唯一無二のものだと思っている人だろうと答えた。

誰もが自分を特別だと思いたい誘惑に駆られる。駆られたまま帰って来ない人もいる。でも、今やっていることは他の誰かでも出来ることなのだ。自分が偶々やっているというだけのことだ。そう思うと、自分の悩みを簡単に解決出来るように思う。

音と孤独

石井満隆先生に舞踏を教えて頂いた。

ワークショップの後、ふとしたときに手を洗いながら水の流れる音を聞き、その音に乗ったり、逆らったりするように手を洗っている自分を発見した。
外を歩いているときには周りに流れている音、突然現れる音を聞くようになった。

今まで、それらが聞こえていなかったわけではない。聞き方を知らなかった。

石井先生に教えて頂いてから、先生の動画を何十回と見続けた。何度見ても発見がある。ワークショップの前にも、どんな先生なのだろうと見ていた動画だが、そのときには何も分かっていなかった。へぇ…という程度のもので、自分には先生の動きを鑑賞する感性が備わっていなかった。今でもあるかどうかは分からないが、先生との八時間の時間の中で自分の奥深くに何かが染み渡ったのだということを感じた。

帰った後には泥のように眠った。それからはずっと先生の動きが日常の中でフラッシュバックしてくる。それらは全て特別な動作ではない。単純な動作なのだ。

先生には「音に乗り過ぎている」と僕の踊りについて指摘して頂いた。音に乗る。今までも僕は周りの音を聞いていた。聞いていたが、それが音としてあることを知っていただけで、音がより質感のある、人に何らかの変化を促すものとしてあちこちに存在しているのだということを知らなかったのだろう。音の流れに乗った自分は死んでいた。街を歩いていると、自分が生きているのだという実感が増した。

カウンセリングのときも相手の声のトーンを聞いていたが、読み取れる情報はもっと多くあったのだということを知った。目の前の人間から流れ続ける音。その音に簡単に乗ってはいけない。いかに乗らないか。そのことを思っていると、ワークショップで皆が一緒に踊っているのをじっと見ていた石井先生の姿が思い浮かんだ。僕は踊りながら、さっきまでは踊っていた先生が立っているのを見て、何をしているのだろうとそのときは思っていた。

てっきり踊りとは周りと一体化することなのだと思っていたが、そうではないのかもしれないと思っている。何でもそうなのかもしれない。もともと自分は周りと一体化出来ないことに悩んでいたが、何かに心血を注いできた人たちに出会うと彼らは一体化していない。流れの中を自由に掻い潜るように存在している。

舞踏家の石井満隆先生、平均化の野口晴胤先生の姿を見る機会に恵まれて、寂しさや孤独の意味が僕の中で変わり始めているのを感じている。

教わること

僕は幸運なことに、いつも一流の方たちに色々なことを教えて頂いている。教えて頂くことは犬のようにわんわんすることではない。その人をどうにかして越えようとすることだ。いつもその場は僕にとって劇場だ。先生がいて、生徒がいて、僕がいる。その劇を見つめている。生徒になってしまえば、先生の寂しさの中に取り込まれていく。僕は目の前から寂しさと技術とを選り分けなければいけない。

寂しさの中には技術以上に大切なものがある。そこにはこれが人間なのだという発見がある。その寂しさという得体の知れない営みが人を動かしていく。寂しさは潔くその場にある。それを見つけるか否かは見る人間の問題だ。寂しさを捉えられなければ、これが人間だとも思えないし、技術も得られない。人に囲まれること、人を惹きつけるものを持っていることには必ず意味がある。

寂しいのは悪いことではない。ちょっとした空白の時間、それまでのパターンから外れた動きの中にその人の寂しさが立ち現れる。深い孤独があればあるほど、その瞬間は美しい。

以前にナンパした年上の女性が大きな会社の社長と友人で、年に数回セックスをすることがあると言っていた。そのセックスで彼女はその男性が持つ過剰さを引き受けようとするのだという。相手が求めてきてもしない。ただ、その時期になったと思ったときにだけそれを許すと言う。
彼女のしていることは現代の高級娼婦だと思った。僕はその女性には一度しか相手にされなかった。その意味が最近分かりつつある。あのときにはまだ寂しさを彼女を使って決定的に癒そうとしていた。それが浅薄な考えだったのだ。そういう寂しさを抱えた者同士がその瞬間に交わって次の段階へと至るときがある。そういうことは彼女以降に出会った数人の女性たちに教えてもらったように思う。

「愛の授業」の映像を見返し続けていた時期があった。自分の姿を見て、寂しいんだなと思った。誰かに話を聞いてもらいたかったのだなと。よく話し、大袈裟な催眠誘導までした。
カウンセリングをする前も以前は毎回過剰にわくわくしていた。今はそんなことがなくなった。日々の勤めであり、勉強をさせてもらう場だと思って、楽しみにはしているが前のようなわくわくではない。

以前に比べると感情の起伏がさらに分かり辛いものになっている…でも、僕が知らないことはたくさんある。もっと教わるべきことがあるだろう。教わった後はいつもしばらくはその先生のことばかりが思い浮かぶ。自然と思い浮かぶ先生の姿を見続けている。そして、教わったそのときに僕が出来たであろういくつかの可能性を思う。

「絶望の時代」の希望の恋愛学

12月28日にトークイベントをする。
男女素敵化大会議
「愛の授業」のイベントが電子書籍化された『愛のキャラバン』が更に本になった『「絶望の時代」の希望の恋愛学』の出版記念イベントだ。

僕は登壇者だが、男女が素敵になることにそこまで関心はないかもしれない。僕はただの観察者だ。他人や社会を変化させることには関心がないように思う。だけれども、こういった場で宮台さんとお話が出来るということが楽しみで仕方がない。

日常を過ごしていると、様々な人が歩いているのが見れる。自分自身もまた、一人の人間として、一日を過ごしている。その一日が満足出来るものなのかということを思う余裕があるのは幸せなことだ。また、それから、眠る前に満足出来る一日だったと思えたのなら、それはとても幸せなことだ。

振り返ると、「愛の授業」では、性愛によってどうにかして自分自身の一日を満足出来るようなものにしようとした試みを宮台さんにぶつけさせてもらったように思う。果たして、性愛は一人の人間の人生を満足出来るものへと導いてくれるものなのだろうかという問い。
それはナンパであれ、どのような出会いであれ、人生の中で通り過ぎる一点でしかないのではないか。

その一点にどれだけ集中して、どれだけ豊かな時間に出来るかどうかは、その一点を通過する人間が日常をいかに過ごしているかによる。それが引きこもりでも構わない。どんな日常でも構わない。自分の一日にかける集中力の問題だ。仕事を忙しくこなしている、周りから充実していると思われる人間が良いセックスをするとは限らない。

カウンセリングのクライアントもそうだ。悩みの質は、その人の生活の表面的な質とは関係がない。誰もが羨むような生活をする人の悩みよりも、誰もが羨むことはなさそうな生活をする人の悩みの方が素晴らしく、その後のその人の飛躍的な変化がある場合もある。というより、そういうケースの方が多い。映画のような逆転する主人公の物語というのはいくらでもあるのだということをクライアントから教えられる。

これは完全に僕の趣味だが、深く悩む人が好きだ。そういう人がクライアントとして目の前に現れたとき、カウンセラーとしてその人の目の前にいられることを光栄に思う。この人のために今まで鍛錬してきたのだと思える。そういうときには、自分の身体から自分自身が消えていって、目の前のクライアントが身体に満たされていく。それは互いが互いに向き合おうとしたときに素晴らしい快楽となる。僕はその瞬間を求め続けている。それはナンパや恋人との付き合いの中でも幾度か体験したことでもある。
自分自身を捧げるためには常に場が必要だ。それは他人であることもあるし、単純に空間であることもある。そういう場を探し求めて、その場に身を投じることは心地良い。

「愛の授業」ではカリスマインテリナンパ師という大仰な肩書きであったが、今はそうではない。ただのカウンセラーだなと自分のことを思う。毎日、僕の生活とは関係のない一人の人の話を聞いている。それを聞いて、人間の様々な生き方を教えてもらう。そうして毎日を過ごしている。ナンパ師であったときよりも、もっと多種多様な人たちのことを知ることが出来たように思う。今度のイベントは「これだけナンパをしてきました!」と宮台さんに報告をしに行くのではないということは確かだ。

「希望のない社会の幸福学」は個人的にはあまり上手くいったイベントとは言えない。「愛の授業」をもう一度しようとしてしまったのかもしれない。話すことは特にないのに、のこのこと出て行ってしまったように思う。どんなものも本当は一回きりしか出来ない。

今回は話したいことがある。自分がカウンセリングをしていて、どうにも出来なかったケースだ。それにどういった可能性があったのかということを知りたい。それは人間に対する謎として、僕の中にあり続けている。このイベントを糧にして、もっと良いカウンセリングが出来るようになることを期待している。

因みに「愛の授業」の前はこんなことを思っていた。