月別アーカイブ: 2013年11月

眠り

最近眠った人に話しかけている。眠っているときはきっと誰もが素直になっている。普段はどんなに他人に依存的であったり、攻撃的であったり、嘘つきであったりしても、眠っているときは違うのだからびっくりする。本当はこの人はこうなのだなと思う。
しかし、起きて、覚醒し始めると普段通りに戻っていく。なんとも惜しい。人が考えて行ったことはこんなにもこんがらがって、歪んでいるのかと思う。それもまぁ人間だ。

話口調が幼い子になっていたりもする。そうか、この人はこの年齢からやり直さなければいけないのだなと思う。積み重ねるはずのものを積み重ね損なったまま、時間を重ねてしまうということは誰にでもあるだろう。

そう思って自分もまた眠ってみた。そうすると眠りにつくプロセスの中で剥がされていくものが感じられた。目覚めるだけでこんなにも様々なものがついてしまうのだと実感しながら、剥がれていき、眠りに入る…起きたとき、眠りの中に近いままでいた。普段とは違う感じ方をする自分を知った。他人を咎めもしない。何でもまぁいいかという感じの状態。不安もない。淡々と流れるべきものが流れていくのだという感じ。小学生の頃を思い出した。

そのままを維持したまま、すぐに起きて、外に出る準備をした。眠りの状態を感じたままの良い一日の始まりを感じられた。

すっかりブログを書くことが少なくなってしまった。誰の中にも毎日様々なイメージが流れ続けている。それをいかにコントロールするか。今僕はモテ本みたいなものを書いている。多分この感じだと出版は来年の五月辺りになる。自分の中に流れているイメージは殆ど全てそのためのものとして言葉として表れる。また、他人を観察する方法も変わってきた。今までは目の前の人をとにかく見ていた。それを大きくぼんやりと捉えるようになった。目の前のその人だけでなく、今その人の周りにいる人たち、また普段その人の周りにいる人たち、それからその人の周りにいない人たち…つまり、その人を囲んでいる社会というものを見るようになったような気がしている。ブログは好き勝手に書けるから、自分の最近の気持ちの整理として書こうかなと思う。

感じ方が変わったせいか、街を歩くことも以前よりも楽しい。ちょっとした人の営みにも以前より関心を持つようになった。ふらっと寄った街で初めて入るカフェのアルバイトの姿。何を感じて、考えて生きているんだろうかとぼんやりと見る。それは通りかかった居酒屋の入り口の扉越しに見える人たちの姿もそうだ。僕には直接は関係ないはずなのに、なんだかその人たちを見るだけでも楽しい気持ちになる。

それと同時にカウンセリングなども毎日している。目の前の一人の人の話を聞くことは、なんて凄いことなんだろうかと改めて思う。僕はそれを大切にしたいからクライアントは必ず一日一人にしている。目の前の人の人生が、誰かと話してしまったことで変わることがある。良い方にも悪い方にも。

自分を社会の中の小さな一点と考える。僕は自分がパニック障害であったときにカウンセリングを受けたことが何度もある。治せなかったカウンセラーたちは一体僕をどうにか出来ると思っていたのだろうか。今思えば、彼らはどうにも出来ない、理解出来ないと僕に対して思っていたのではないかと思う。それを正直に言ってくれれば、何年も通って、何年も治らないままでいることなんてなかったのにと思う。過ぎたことは仕方がないから、彼らに何かを思うことはない。だけど、出来ないことは出来ないとすぐに言わなければいけないということを思う。僕は社会の中の小さな一点として、そうして右往左往していた。小さな一点だけど、流れるべき場所へと流れることはもっと早くに出来たはずだ。誰もが小さな一点として存在している。それらが流れるべき場所に流れればいいのになと思う。だから、僕のところに流れてきたものには、きちんと出来るか出来ないか、そのためにはどれくらいの期間が必要かということを、僕が思うところを正直に告げなければいけないと思う。その意識がなんだか最近は強くなった。

もう何年も前、ナンパをした女の子の愚痴を聞いていたときに、彼女が別の誰かに励まされた体験を嬉しそうに語っていたので否定したことがある。彼女はその体験を大切にしながら毎日を過ごしていた。僕にはその体験を大切にしているから、愚痴らなければいけない毎日を過ごしているように思われた。それは慰めのようだった。だから、否定した。そうしたら彼女は泣き出して、僕を酷い人間だと言って、その場から去って行った。そこは居酒屋だった。僕はその居酒屋で一人で考えた。これで良かったのかどうか。僕も励ませば良かったのだろうか。でも、彼女の生き方は僕には美しくは見えなかった。そういう葛藤を人と接していると今でもよくする。あのとき、彼女という社会の中の一点は僕のところへ来るべきではなかったのだろうか。とはいえ、僕が勝手に声をかけただけだ。僕という社会の中の一点は彼女のところへ行くべきではなかったのかもしれない。

様々な点が動いている。そう見える。僕は点の流れを見つめている。

カリスマナンパ師 モリマンディレイさんとの講習

カリスマナンパ師のモリマンディレイさんと講座をさせて頂くことになりました。
この講座は今回一度だけの開催になります。

レイさんについてはこちらの記事をご覧ください。
「モリマンディ上陸作戦」歌舞伎町で1200人斬りのナンパ師にナンパを教わってきた
「モリマンディ上陸作戦」レイさんの講習を受けた

これまで僕自身が参加したり映像で見たりした大人数向けのコミュニケーションの講座やナンパの講座に対して疑問を抱いてきました。講習にはコミュニケーションが苦手な方たちが集まります。それに対して講師はノウハウを伝えます。そのとき講師は彼らの中でどれだけの人がそれを実践して成功すると想定しているでしょうか。
僕自身は参加者として見ていて、参加者の殆どがそのノウハウを実践することはないだろうと思っていました。それは彼らが的外れな質問をするからです。もし仮にそれを彼らがそのまま実践したとしても成功することはないでしょう。

ナンパブームなのか、今街に出ればたくさんのナンパしている人を見ることが出来ます。彼らの殆どが失礼な声かけ、腰の引けた声かけをして、街の中での違和感となっています。スカウトマンをしていたときに上司に言われました。
「スカウトは街のゴキブリみたいなもんやからな。」
女性にとって街で突然声をかけてくるスカウトマンはそのようなものです。男性にとってはキャバクラの呼び込みのボーイ、居酒屋のキャッチのようなものです。ナンパもまた同じように他人に迷惑な印象だけを与えるものになる可能性を多く持っています。地蔵をする人たちは自分自身の客観的な姿が迷惑なものであると少なからず自覚しているのではないでしょうか。或いは、それらを無視して声をかければ虚勢を張って声をかけることになるでしょう。そうしてナンパは益々不自然な、普通の女性には受け容れられないものになっていきます。ナンパを成功させるために自然でありながらもメッセージを強く女性に突き刺せるような声かけをする必要があります。

僕はレイさんの講習を受けたことがあります。また、僕の講座などを受けられた方の中にもレイさんの講習をその前後で受けられた方がたくさんおり、そのお話を聞かせてもらうこともあります。レイさんの動きを見た人たちはその自然な動きに魅了されます。
今回の講座ではレイさんにそのナンパの方法の秘密を語って頂きます。また、参加者の方には出来るだけ語り方、雰囲気も含めて見て頂きたいと思っています。これほどの実力者がコミュニケーションの講座を行うことは非常に稀なことです。
女性が彼に対して心を開くのはなぜでしょうか。語りの効果ももちろんあると思いますが、人間は第一印象で人を判断すると言われています。ナンパなら尚更そうでしょう。しかし、殆どの人はノウハウを知りたがります。しかし、どうやってやるかということよりもまず達人を見なければいけません。上達のコツはどれだけ雰囲気をコピー出来るかです。コピー出来れば、自ずと達人から語られたノウハウの意味、効果的な使い方も見出されていきます。

この講習では、レイさんのナンパノウハウに加え、そのノウハウを吸収出来るようになるための心身の状態のセットの仕方を僕からお伝えします。実際に身体を動かしながら、不安や自信のなさから自分自身の身体に溜まってしまっている不要な緊張を取り除き、自分自身の内側から出てくる熱を他人にぶつけていくことの出来る状態を体験して、その状態を自分でもセット出来るようになって頂きます。

それからまた疑問に思うことについて、レイさんに質問をして頂ければ、参加されている方たちにとって充実した時間にして頂けると思っています。はっきりとした根本的な解決策を提示してくださるはずです。

【内容】
モリマンディレイさんによるナンパ実戦講座(一時間)

僕によるナンパのために必要な心身の変化の方法(一時間)

質疑応答(一時間)

【日時】
1月19日(日)
13時開場、13時15分から16時15分まで
会場は半蔵門線清澄白河駅付近
(詳しい場所はお申し込みを頂いたときにお伝えします。)

【受講費】
八千円

【定員】
50名まで

【申し込み方法】
la.flambee@gmail.comまでご連絡ください。
その際、氏名(本名)、年齢、電話番号、この講座を受けようと思われた理由を書いてください。
いずれかが欠けている場合はお申し込みを無効とさせて頂きます。

意識、動き、皮膚、欲望

ボディワークの講座に行くといつも思う。人の身体の動きに集中している人が多い。僕は人の意識の状態に集中している。それはカウンセリングをしているからなのだろうか。なぜかは分からない。身体に集中すると、動きを見逃してしまうように思う。動きは意識が作り出す。それがどういう気持ちで行われたのか。それは意識的な動きなのか、無自覚な無意識的な動きなのか、自覚された無意識的な動きなのか。それを知ることで、その動きを再現することが出来る。動きだけを見ていたら、動きの形を後追いするばかりで、それは自分自身の意識が発するものとならない。

カウンセリングなどの講座に行くと反対のことをしている。どう動いているのかを見ている。話していることなどはあまり聞いていない。動きを見ると、その人が何を意識しているのかが分かる。

カウンセリングをするときは、自分の動きに、皮膚に集中している。皮膚の感覚がクライアントとの関係性がどこに向かおうとしているのかを示してくれる。目はただ目の前のクライアントを写し、耳はただ彼の声を聞く。そうすると、心の中にイメージが形成されていく。話の内容、彼の感情、そして彼の話していない彼のこと。クライアントがトランスに入ってくれているときは僕は何もしていない。ただ流れているものだけを、じっと動かずに捉えている。目の前で生きている人、生活している人を感じている。

女性を口説くときは欲望に集中している。この人にはどんな欲望を僕は抱けるのだろうかと。ナンパを頻繁にしていたときは頭ばかり使っていたなと思う。リラックスして、どれだけいつも通りの動きが出来るかに集中していた。欲望は相手があって初めて成立するものだ。心の奥からこの人の心臓を鷲掴みにしたいと思えるのを待っている。それはなかなか生まれない。年齢のせいなのだろうか。なかなかその欲望が生まれなくなった。その欲望が生まれたらあとは勝手に身体が動いている。

家族や恋人、友人と話すときは何にも集中していない。もし特定の何かに集中しなければいけなくなったとしたら、相手はもうその関係ではない。

舞踏のワークショップに行って/AかBか…

舞踏家の誠司さんのワークショップに行った。

いつもとってしまう選択肢Aがあり、それとは違う選択肢Bがある。Aは一つ。Bはそれ以外。とても単純なことだ。常にBをとり続けるようにというワークがあった。それを聞いたとき、このまま死ぬのではないかと思った。僕はパターン化が嫌いだ。いつもと同じことを今日もするということが嫌いだ。そう思って、いつも新しいことを感じられることを楽しみにしている。しかし、どうだ。Bをしろと言われたときに、震え上がった。人が見る中で僕はBをし続けなければいけない。僕はBらしきものをいつも自分にセットした。そして、他人の前ではセットしたBを繰り返していた。僕の日常はBになる。しかし、僕の他人に対する態度はAだ。それが僕が他人に心を開かない人間であることの所以だ。僕自身の人生は進んでも、他人との関わりは変わらない。僕が変わったことで、他人を怖くなくなる。それは他者との関係性をその場で変えることというよりも、予め自分を変えておくことでしかない。

誠司さんと初めて会ったときに、自分には出来ないことがこの人は出来ると思った。しかし、それが何なのかは分からなかった。舞踏のワークショップのときは、必死で今までの自分の知識、技術を総動員させて上手くやろうとしていた。準備したものを組み合わせることで、その状況に対応することが今までの自分のやり方だった。そうだったのだということを今回のワークショップを終えたときに思った。パターン化しないことを心がけていたが、知らない間に同じパターンを繰り返していた。自分のことは本当に分からない。

Bをとろうとする。そうしたときにそのBがAになってしまう。またBを…それがAになる…Bを……全てがAになる。BとはA以外のものだ。Bの方が多い。Aは一つだけだ。なのにその一つのものにとらわれ続けてしまう。地獄のような体験だった。どんどん動けなくなる。動けなくなったときに身体が震え出していたように思う。意識がなんだかよく分からない形に分裂していきそうになる。目は完全に見開いたまま、動けない。A、B、A…B……A………A………………Aすら何なのか分からなくなった。止まってしまった。諦めたら、完全に気が抜ける。それだけは避けたい。そう思って集中していたときに何か動いた気がする。それが良かったのかどうかは分からないが、いつもの自分とは何かが違った。

舞踏が何であるかは分からない。誠司さんの作り出したこの空間のことしか僕には分からない。僕は完全にAかBかの牢獄に閉じ込められてしまった。そして、その牢獄に今でも喜んで入り込んでいる。この牢獄の中で、ずっと自分の過去を思い返して、そして外を見て…を繰り返している。Bとは何か。

他の人の踊りも見た。身体が震えながら、動けなくなっていた。彼が彼そのものの範囲の中にしかなかった。人の雰囲気は空間に広がる。それが彼自身の範囲の中に留まっていた。存在感がなくなったわけではない。だけど、自身のありのままの弱さがそこにはっきりとあった。それは強さともいえたのだろうか。彼について僕が知っていることが踊っている彼、硬直して震えたままになっている彼を見ていると、思い浮かび続けた。それは愛おしい存在だった。彼とはもう何年も前に出会って、一年半前には「愛の授業」というナンパのイベントまでした。初めて会ったときには六本木でナンパもした。あのとき、奈良で二人でこんなことをすることになるなどとは一寸たりとも想像し得なかった。

ワークショップを終えて、街の中に出ると人の動きを見るたびにAかBか、どちらだろうかと思って見てしまう。他人のBは自分のBよりも分かる。その人が動き出す先以外のところにいけばBだ。しかし、その今のままの自意識を持っている限り、Bになることはないだろう。ホームで電車を待っていた。僕は後ろの方で彼らを見ていた。電車が来た。扉が開く。彼らのAが見える。Bにはならないだろう。それが日常であり、自意識であるのだ。もし今彼らが止まったまま、自らの過去に意識を向けて、トラウマと向き合えば…なんて乱暴な発想が浮かんだ。そして、震えながら踊り始めたら…それはBだろうか。僕は一体今Aなのだろうかと思い、電車に乗った。

電車の中、過去のことが思い浮かんでは自分の中を駆け抜け続ける。目を開いて、注意深く電車の中を見つめる。人がいる。A…A…。自分にとって他人に話しかけることがBである時期もあった。しかし、それはもうAだ。動かずじっとして…周りの光景を自分の眼球に映し込ませる。僕にはBが分からない。一先ずこの電車の中に意識を行き渡らせた。それからこの電車の前の舞踏の教室のこと、そこにいた人たちのこと、それから今から帰る家、そこにいる家族のこと。なんだか感動して、生きていることが喜ばしく、過ぎていく時間を大切に扱わなければいけないこと、命はいつまであるか分からないということを思った。

一先ず…何が言えるのかというと、答えの出せない問いに出会ったということだけかもしれない。