月別アーカイブ: 2013年10月

歩くことと見ること

他に可能性はなかったのだろうか。自分では失敗したと思っているカウンセリングのことをいつも思い出している。自分がどういうことが出来たのか。そのときの低い解像度では見えていなかったものがあるはずだ。そういうときに、自分と見方と動き方を意識する。解像度が低くなっているときは心身の状態が悪くなっている。目の前の人間を認識するシステムとしての自分がおかしくなっている。そういうときは自分の認識の仕方と動き方に意識を向けることで、自分を整えている。

いつもカウンセリングの前は待ち合わせの広場の端にいる。人々が動いているのを見つめている。ハチ公前には色々な人がいる。キャッチ、浮浪者、サラリーマン、大学生…歩くリズムがこんなにバラバラな場所というのが面白い。そういう人々が思い思いの動きをしているところをじっと見た後に、約束の五分くらい前になるとハチ公の近くをゆっくりと歩いたり、止まったりする。そうするとこのバラバラな動きの中に自分の身が捧げられたような感じになって、自分の身体をそこに開いたままにして自分を感じることをすることが次第に難しくなっていく。そこで集中を保っていると、その難しさの流れの中に入っていけるようになっていく。集中力が上がる。いつもそのときに舞踏の稽古を思い出す。これ自体が舞踏の稽古のようで、舞踏の稽古がこの広場を歩くことのようでもある。

そのときに目の前を見れていないことに気づく。目は開いている。だけど、自分の内面を感じることに意識が向き過ぎて外界を遮断してしまっている。そのままでは内にこもり過ぎて、外のものを何も感じられなくなってしまう。開いた目に何が映っているのかを確認したり、周りの音や肌の感覚に意識を向ける。そうすると、また身体が開いていって、様々なイメージや考えが浮かんでくる。その浮かんでくるものに意識を向け過ぎるとまた内に入り込んでしまう。それに気づいたらまた開いて、外のものを認識するように努める。これを繰り返していくと状態が出来上がっていく。

周りで他人が動いている。それを感じて動く。感じていると思っていたら、いつの間にか自分の思い込みの世界の中に入ってしまっている。また感じて動く状態へ。この繰り返しの中で精度を上げていくと、以前の失敗の理由が分かることもある。他人の行動のより手前、その人に埋め込まれていた暗示の存在に気がつく。気がつくと言っても推測でしかないからもう確かめようもないけど、それは失敗したときの自分には見えていなかったものではある。

毎日のこと

よく人から、毎日何をしているのかと聞かれる。毎日大体同じことだ。そのことについて少し書いてみようかなと思う。

カウンセリングをやり始めたのは二年半前になる。あのときはまだスカウトをしていた。それから、ナンパ講習を始めると、申し込みのほとんどはナンパ講習になり、一週間のうち多い時は毎日、普段は四回ほどやっていた。本当はカウンセリングをやりたいと思いつつ、だけど、今出来ることはこれなのだろうと思い、ナンパ講習をやり続けた。今ではナンパ講習の依頼はそのときのようにはない。ブログを読んで、余程気に入ってくれたのだろうという人だけが受けてくれる。月に二、三回程度。それくらいが僕にとってもちょうど良い。ナンパ講習をすると躁状態になる。激しい躁状態であった次の日は鬱状態になる。人間は躁鬱を繰り返す。無理矢理躁状態にしたら、その分の反動が来る。僕はよくこんなことを頻繁にしていたなと今では思う。いや、そう考えると、スカウトは毎日やっていた。それに加えてナンパもしていたのだから、余程躁状態だったのだろう。様々な女性と出会うことが、僕を相当な躁状態にし続けていたのかもしれない。こういうことは祭りだ。毎日あったら祭りの新鮮さもなくなってしまう。月に二、三回、そうした非日常的な時間の中で日常を見つめられれば十分だと思う。

普段はのんびりと暮らしている。朝は起きてからごはんを作って、気功とピラティスをして、瞑想をする。それから、喫茶店で文章を書いたり、本を読んだりする。大抵窓際の席に座って、人が通るのを眺めながら。僕にとって、他人の営みを見ることはとても大事だ。この人はどんな人なんだろうと思いながら、毎日眺めている。そうして色々な人を見ていると、ふと色々な考えや記憶が浮かんでくる。特徴的ないくつかの歩き方から、生きるということについて考えが浮かんだり、何かを思い出したりする。外にあるものから触発されて浮かび上がってくるいくつかのイメージが重なるときに何らかの発見がある。

思えば、大学一年生のとき、一人上京してきてパニック障害になってしまったときからやっていることはあまり変わらない。そのときも大学に行かず、外に昼ご飯を食べに行き、近所の商店街を歩いたり、喫茶店で本を読んだりしていた。ただの引きこもりだった。同じような生活だけど、今はカウンセリングをさせてもらっている。ありがたいことだなと思う。

夕方辺りからカウンセリングの予約が入っている。渋谷に行って、カウンセリングをする。その日初めて話をする人は大体クライアントだ。僕の一日はクライアントが中心になっている。起きてからクライアントのために、心身の準備をし続けている。終わってからはそのクライアントのことを考える。クライアントは原則として一日一人だけ。一日に二人以上のカウンセリングをすることは出来ない。それをするとクライアントに対して雑になるばかりか、自分の精神的な体力が完全になくなって、パニック障害のときのような解離状態になってしまう。一日一人の相談事をしに来てくれる人を中心に成り立っている生活であるように思う。

カウンセリングが終わると一人でどこかに飲みに行くことが多い。居酒屋でその日のクライアントのことを考えている。空っぽになっていた心の中にクライアントのことが満たされている。同調して、その人と同じような状態になっているので、本来の自分を取り戻すためにこういう時間が必要なのだと思う。その日のカウンセリングで辿った道筋は間違いがなかったか。身体の動作などに見落としがなかったか。理解しそびれていたと後になって思うことはないか。そういうことを考えたりして、今後のやり方についてアイデアが浮かぶのを待っている。ツイートをするのは大体このときだ。ツイッターは自分にとってはメモ代わりだ。一時間ほど飲んで外に出る。

外に出てから、知らない人に声をかけることは以前はよくあった。今はなかなかしない。家に帰ったり、友人に会ったりする。以前と比べると他人に対する関心が薄れてしまったのだろうか。一人でじっと他人の営みを見つめているときが幸せだ。相手の話を聞き始めると疲れてしまう。だから声をかけるのに躊躇するようになってしまったのかもしれない。他人と話すということは目的がない限りは苦痛だ。

飲み会などに行っても、あまり話さないし、聞かない。なんとなく周りの人に囲まれながら、好きなものを食べたり飲んだりしている。そのときも他人の営みを見つめている。時折、特別に気になる人がいたら、その人に触れることを始めることもある。聞きたいことを聞く。僕にとって、会話をする、触れるということは特別だ。特別な人にしかしないし、出来ない。飲み屋では、知らない人には極力話しかけられないように努めているし、僕も余程関心がない限り話しかけない。関心がないのに話すのは失礼なことになってしまうなといつも思っている。

家に帰ってまた気功とピラティスをしながら、その日にあったことを思い出している。色んなことを思った一日だったなぁと急にハイテンションになってしまうこともある。そして、次の日にまた起きるのを大体楽しみにして眠る。

以前はこの単純な繰り返しが嫌で、さみしくて、だから色々な人と会ったりしていた。それから、死ぬのが怖かった。死ぬまでに新しいものをどれだけ集められるかということばかり考えていた。不眠症ではなかったが、眠る前にすぐに眠ってしまってはいけないような気がして、そわそわしていた。今はこの繰り返しを愛している。繰り返しの中で、いつもと少し違うことを発見したりすると嬉しい。生活は繰り返しでも、捉えることは常に新しくあるように心がけている。