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違うことをしてみること

閉塞感とは、過ごしている日常に楽しみや希望を見出せないところから起こる感覚だろうか。誰にでもたくさんの可能性がある。その可能性を放棄したままで過ごし続ければ、閉塞感が生まれる。気づいたら同じことを繰り返していた、というやつ。

誰にでも過ごしている日常がある。それをどのように過ごしているのか、自分に問いかけてみると、意外と新鮮に思い出すことが出来る。あるいは、そういうことを質問されると嫌がられることもある。「さぁ…思い出せません。」と即答されることもある。思い出せないというよりも、思い出すのが億劫なのだ。自分のやっていることを省みる。そうすると、意識せずに動いていることがたくさんある。財布から小銭を取り出す、他人の話に頷く、キーボードを触る、喫茶店のどの席に座るかを決める…。動くこと、考えることには様々なやり方がある。その中で一つの方法を無意識に採用している。それらを思い出しながら、それで良かったのかとか、なんでそんなことをしたのかとか、考えてみる。

「見知らぬ他人に声をかけて、セックスが出来る関係性を築く。」
突然、この課題を与えられたとしたらどうするだろうか。普段とは違う日常が始まるだろう。課題だから、その役になりきって気軽に出来るかもしれないし、その行為自体がどのような意味を持つのかということを考えるかもしれない。とりあえずやってみて、出来ないことを知る。改善点を探す。改善案を出して、もう一度やってみる。そういうことを繰り返しながら、先に進んでいく。新しいことの発見がある。

もしそれが出来るようになったら、今度はもう少しメタに捉えてみる。これをやっているときの自分の感情はどうなっているだろうとか。あるいは、他人がやっているのを見ながら、そのことについて考えてみたいと思うかもしれない。そうすると、また新しい発見がある。発見とは、それまで自分が知らない間に繰り返していた行動や考えを見出すことだ。自分のルーティーンを知ること。知れば、同じことを繰り返すことはなくなる。繰り返している場合は、もっとその行動や考えについて、細かく捉えてみる。そうすると、何を繰り返しているのかがはっきりする。例えば、街に出て女の子に声をかけようと思ったけどかけられないということを繰り返している人がいたとする。彼はいつも声がかけられない。それを繰り返していることは本人も自覚している。だけど、自覚しているのはそれだけだったりする。服装や髪型がいつも同じかもしれないし、声をかけるときに想定している動きや言葉もまた同じかもしれない。同じことの繰り返しの中では、他にもたくさんの同じことが繰り返されている。それを自覚すれば、どこか決定的に変えるべきところが見つかったりする。特に服装を変えない人は多い。彼は自分が周りに溶け込めないと思い込んでいる。だから、声をかけようとする。でも、彼自身は言葉にならない形では、この服装では声をかけても無駄だということを知っているのかもしれない。こういうケースは今までもよくあった。

同じことを繰り返すのは、自分の行動や考え方を細かく見ようとしないから。それで人に助けを求めて、手を差し伸べてもらってしまったら、また細かく見る機会を失ってしまう。そうして、世界は、誰も助けてくれない怖い場所になっていく。自分自身をよく見てみると、自ずと答えは浮かんできて、そうすると、気持ちも選択肢も知らない間に自然と変わる。

誰かに自分を投影することは…

誰かに自分を投影することはとても危険なことだ。よくある親子間の悲劇はこうしたものから起こることが多いように思う。子どもをどうにかしようとする親が、子どもに介入する。介入された子どもはそれに応えるように頑張る。それが続けば、子どもは極端に人の意見を聞かなくなったり、極端に人の意見しか聞かなくなったりする。どちらの場合も他人の意見に左右されてしまい、自分で考える能力が奪われてしまう。

僕は自分がそうした環境で育ったせいか、人にアドバイスをしがちになってしまう自分がいることを知っている。カウンセリングをするということはそういう自分との戦いだった。クライアントに反応して、なかなか進まない話に苛々したり、答えが目前にあるのに気づかないのを見て、それを伝えようとしたりしてしまっていた。今でもそうしてしまうことはあるかもしれない。カウンセリングは…というよりも、他人と会話をすることは、目の前の人間に自分を投影してしまうという誰もが持っている性質との葛藤でもある。

ルソー君と渋谷のクラブに行った。十時半頃に入るとハッピーアワーで千円で入れた。それで千円分のドリンクと引き換えられるコインももらえる。入場料がただ同然だったのでびっくりした。スタッフたちは皆ぶっきらぼうに上から接してくる。虚勢を張るとはこのことかというような。もし僕が初めてクラブに来たとしたら、この時点でかなり緊張してしまっただろう。

地下三階には、二十代後半のスーツ姿の男性がほとんど。それなりにオシャレな若者が少し、大学生っぽいパッとしない若者が少しという感じだった。女性はほとんどいなかった。壁沿いにある浅いソファに座ってルソー君とウーロン茶を飲んだ。彼はあまり話さない。どうやらツイッターを見ているようだった。小さく鋭く回転する歯車が彼の中で、彼のコントロール下にないところで、ショートしそうなほど回転しているように思われた。特に人前では、まだその回転は止められることが少ないようだった。男性ばかりのフロアをぼんやりと見ていると、隣のスーツ姿の男性が声をかけてきた。
「一人で来てんの?」
「いえ、友だちと来ました。」
「よく来んの?」
「初めて来ました。渋谷のクラブはあまり行ったことがなくて…。ナンパですか?」
「君、はっきり聞くねw まぁそうだよ。」
ナンパ前のウォーミングアップに僕を使おうと思ったのだろう。彼のナンパは恐らく同じような流れで女の子にされるはずだ。成果は少ないだろう。ぼんやりしている僕にタメ口で、強い口調で話しかけてくる時点で同性さえちゃんと見れていない。一人で来て、とても緊張しているのだろう。
「どうですか?ナンパは上手くいってますか?」
「あぁ、持ち帰りはないけど、ベロチューくらいかな。」
「そうですか。」
「君は?」
「僕は百回くらいはそのまま持ち帰ってセックスしています。」
「…。」
百回は嘘である。ちょっとびっくりした顔が見たくて、いじわるをしてみた。彼はいなくなった。

うるさくて話し辛いので、地下二階に行った。地下二階は穏やかな音楽が流れていて、踊っている人もいなかった。また浅いソファに座って、ルソー君と色々話をした。最近あったこと、ルサンチマンについてなど。彼と話していると緊張する。彼は人に投影をさせ易い。僕の中からアドバイスをしたいという気持ちが湧いてくる。それを抑えて、話をする。いつでも、アドバイスをしている人間は、されている人間に依存をしているのだ。他人にするアドバイスは、他人を前にして自分自身に対して言い聞かせているに過ぎない。だから、彼には特に、僕自身の話をすること、彼の話について興味を持ったところに質問をすることに留めるように心がけている。そうすると、また彼の中で歯車がまわり始めるのを感じる。彼が落ち着いて、話を聞いているときは、その歯車は穏やかに彼のコントロール下でまわっているように感じられた。会話がスムーズに流れていた。

十二時を過ぎたので、地下三階に戻った。彼と踊っている人たちを後ろから眺めていた。
「皆、リア充に見える?」
「はい…。」
「よく見て。音楽と身体が合っている人は少ないというか、殆どいないよ。」
自信がないと観察力は極端に下がり、目の前の現実が歪んでしまう。フロアでは皆が踊っている。だけど、お立ち台にいる女の子でさえも音楽と身体のリズムが合っていなかったりする。空間に自分が入り込んでいないのだ。そのリズムのズレを見るのがクラブナンパでは重要だ。そのズレが、その人の慣れてなさやその場での自信のなさ、緊張して意識が外を向いていることを表している。一人、動きの少ない女の子がフロアにいた。全体のリズムを目で捉えると、誰に話しかけたら良いかがなんとなく分かる。ルソー君に声をかけるように伝えた。
彼が女の子に近づいていく。声をかけると、女の子は反応して話をしていた。それを見て、我が子を見守るようにほっとした…が、それもつかの間、彼が話をやめて隣で棒立ちになっている…。こういう状況をその後も何度か見た。クラブの女の子は興味がなかったら話してもくれないことが多い。彼は人の興味を惹くような雰囲気を持っている。だけど、彼自身が話さないから、女の子も戸惑っているように思った。彼自身は必死だったかもしれないが、棒立ちをしている彼の姿が可愛かった。

その後、僕も少し酔っ払ってしまい、当初のルソー君を見守るという目的を忘れて、一人で好きなようにナンパした。クラブ慣れをしていない若い人が多いからか、やり易いかもしれない。男性も七割くらいは地蔵であったように思う。久しぶりのクラブだったけど、やはりクラブでは服装いじりとネグから入ると会話がし易かった。

自分の中の自分、催眠療法

カウンセリングのとき、催眠療法を使うことがある。僕は出来ればカウンセリングでは催眠誘導は使いたくない。日常的に話していく中でその人が変わっていったり、変わっていくためのきっかけを見出してくれればいいと思っている。何でもかんでも、催眠誘導をしてトランス状態にして…とやっていたら、トランス状態のクライアントに確信をもって触れることが出来ない。誘導する側が、トランス状態を魔法のようなものとして捉えてしまうと、クライアントもこの状態に依存してしまう。それだけ、トランス状態にある人間に触れることは難しい。僕にとって、トランス状態とは、その人が飼い続けた怪物と出会う場である。

狂気を垣間見せる表情というのがある。それは不自然な無表情であったり、今にも叫びそうなものであったり、襲いかかってきそうなものであったりする。そのとき、人は自分の中の怪物を目の前の人間に晒そうとしている。二人の間には不穏な空気が流れる。受け止める人間は、心しなければならない。もし、その怪物に八つ裂きにされてしまったら、一人の人間に身の程も知らずに無暗に触れてしまったという罪悪と敗北を感じ続けることになってしまう。

怪物と出会うとき、僕は催眠誘導をする、というよりも、自然とさせられる流れになる。その怪物はある過去のその人であったり、それまで生きてきた中で打ち捨てられたその人の一部であったり、或いは人前には決して出さないその人の強い感情であったりする。

僕はこの怪物を愛している。自分がまさにその怪物を飼っていた。女性を口説くとき…その女性が僕にとって嫌いなジャンルの女性であればあるほど、サディスティックな自分が出てきて、変な笑いが顔に浮かび上がっていた。それは自分には制御出来ない表情であり、内側から湧いてくる感情だった。いつもとは全く違うテンションの高さが自分の身体に駆け巡っていく。どんなことをしてでも落としてやる、と思う。そのときには恥ずかしいとか、失敗したらどうしようとか、そういった自分を躊躇させるものはない。傷つけることを喜びに感じ、相手が自分を好きになればなるほど、いつ振るのが一番ショックを与えられるだろうかと考えていた。僕はそういう自分の内側からなぜだか分からないけど湧いてくるものを使って、女性に話しかけ続けた。それはとても便利なもので、僕にたくさんの恩恵をもたらしてくれた。

だけど、一人の女の子と付き合うことになったとき、それが僕自身の誠実さを邪魔するようになった。どれだけ恋人を大切にしようと思っても、サディスティックな自分が出てきてしまう。そのときには恋人を責め、別の女性を求めて街やクラブに出てしまう。自分の携帯電話には一気に連絡先が溜まっていく。

僕はある日、恋人に携帯を見られた。そのときに、ナンパした女の子たちとのやりとりを見られてしまった。自分の中のサディスティックな自分が、そのときに蠢いているのを感じた。開き直って目の前の恋人との関係を断つ…それはいつもしていることだった。
「嫌だったらもっと好きにさせてみろ。」
いつもはそう言っていた。

気分に任せて好き放題を言うところだったが、そのときは蠢いている怪物を感じてみた。寂しそうにしていた。彼は寂しがっている。かといって、いつもと同じように自分勝手に暴れ回りたいわけではないようだった。僕は恋人との仲が進展してきて、恋人がついうっかり僕に寂しい思いをさせたとき、怒り狂ってナンパをしていることに気がついた。僕はただ寂しかっただけなのだ。

恋人に正直に言ってみた。
「寂しくなったり、理解してもらえていないと思うとナンパしてしまって…。」
こんなに普通のことだったのかと自分自身のことについて驚いた。僕はただ寂しいということだけで、他人に声をかけ続けていたのだ。寂しいと思うと、声をかける。寂しいから、なかなか上手くいかない。その中でようやく一人の女性を手に入れる。もう寂しくなりたくないと思い、その一人をキープしながら、どんどんキープの数を増やしていく。キープが増えれば増えるほど、僕は寂しさを感じなくなる。その一方で、僕は他人に深く関わる必要もなくなる。浅く関われば、そのときの寂しさはなくなる。そして、浅く関わったことの寂しさは、別の浅く関わる女性で癒す。そうして、数人の女性をまわしていき、結局誰にも心を開けなくなっていく。

そのとき、記憶が勝手に引き摺り出され始めた。僕の中に眠っていた記憶が、心の中を駆け抜けていく。それらは久しぶりに思い出すものばかり。僕はただその浮かび上がって流れていく記憶をぼんやりと見つめる。確かに、そんなこともあったなと。それはある一つのことが解決するときに起こることだ。もうそのとき、寂しさは感じない。そういうことがあったのだなと、自分に起きた出来事をとらえていくだけだ。

恋人が謝った。
「寂しくさせてごめん。」
新しい出来事が、恋人とのやりとりが、自分の身に起こったのを感じた。そうか。寂しいと言えばいいだけのことだったのか。
「あ、うん。僕もごめん。」

怪物は、女性を責めていたのではなかった。正直になれていない自分がいることを教えてくれていたのだ。僕は怪物が現れたとき、女の子に声などかけていないで、自分自身を感じるべきだったのだ。寂しさを感じる自分と、その寂しさを感じないようにする自分。感じないようにする自分が日常を生きていた。その日常に我慢が出来なくなると、寂しさを感じる自分が現れていたのだ。

この出来事をきっかけに、寂しさを感じることを自分に許し、日常の中で、寂しさを感じながら生きていく自分になった。今は寂しい、もう少し理解してもらいたいと言うことも出来る。そして、自分がそう思っているのだなと正直に感じられる。怪物だと思っていた自分は素直な自分に過ぎなかった。終わってみると、なんだそんなことかということである。

とはいえ、まだまだ自分には、自分を勝手に動かしている怪物がいる。彼らがいるからこそ、自分の人生は面白い。そして、彼らに出会うとき、また新しい自分を発見するのだろう。自分のことはどれだけ繊細に見つめても、見つめきることは出来ない。

モテる

女の子にモテるというのはどういうことだろうか。僕は内気で、女の子にどう接していいのか分からなかった。大学でも本を読んでばかりいて、女の子と目が合うと、怖くてすぐに目をそらした。そんな僕のことを好きと言う子もいた。そのときはなぜそうなのかが分からなかった。今ならなんとなく分かる。童貞っぽさというか…内気さというか…そういうものが気になる女性はいる。

僕が初めてギャルとセックスをしたのは、スカウトをやっていたときに知り合ったある女の子だった。彼女をスカウトをして、あるキャバクラの面接に連れて行った。それから、数ヶ月後、彼女から連絡があった。キャバクラのボーイに付き合おうと言われたという。女性から恋愛の相談を受けるということなどは、願ってもないチャンスである。その当時の僕は隙さえあればセックスの数を増やしたいと思っていた。

彼女は金髪で服もぴったりと身体の線に沿っているギャルだった。ギャルにありがちなのか「私はギャルではない。」と言っていた。自分自身をギャルではないと言うギャルは何人か会ったことがある。そういう文化なのだろうか。

彼女の相談はこうだった。ボーイが好きだと言ってくる。付き合おうかどうか悩んでいる。また、整形しようかどうか悩んでいる。私はわがままである。僕は宮﨑あおいのような堅実な女性と長く付き合っていそう。そのような話をしてくれた。

なんとなく…彼女は誰でもいいから、好かれて、付き合いたいのだろうと思った。僕もまた、金髪の女の子に一度でいいから好かれたい、セックスをしたいと思っていた。ニーズが合致した。

彼女は相談のこと以外はあまり話さなかった。沈黙が流れる…僕が苦手なものだった。ギャルに沈黙されたら、僕がきちんと話題を提供出来ていないような気持ちになる。罪悪感、自分に価値がないというような気持ちで、身体が縮んでしまいそうだった。
「私、お金ためて整形したいの。」
彼女がそう言った。何の脈絡もない話題がポンと投げられる。僕は素っ気なく「そうなんだ。」と返した。そして、沈黙がまた訪れる。僕と彼女に接点があまりにもない。それでも家に誘うと、彼女は「いいよ。」と言った。セックスをして、付き合うことになった。
「さみしい」とか仕事の愚痴とか、色々なメールが来るようになった。僕にはそれらのメッセージが僕に発せられる文脈が分からなかった。結局、数回会ってセックスをして、僕が連絡を無視する形で別れることになった。

今でも、彼女のことはよく分からない。彼女に限らず、よく分からない人たちが世の中にはいっぱいいる。バーに行ったりして、周りの人たちの話をじっと一人で聞いている。彼女たちの話は…彼女たちの生活は…僕には分からない。僕の感覚とつながらない。だけど、彼女たちは生きている。僕にはどこか、彼女たちが自分自身の内側に入ることを知らずにいられるからこそ、動けているように見える。あの高い声…早いリズムの会話…人の目を見ずに活き活きと話すあの態度…。そういう生き方とは自分は無縁だった。自分はこれでいいのだろうかと、常に自問自答と自己嫌悪をしながら生きてきた。自己肯定とは、自己嫌悪にまで至らない思考の結果ではないかと思っていた。自己肯定というよりも、自己嫌悪の不在、忘却。

僕を好きになってくれる人はいつもそういう自己嫌悪に絡みながら生きている人であったような気がする。そういう人たちに好意を寄せてもらうことは簡単だった。ナンパをしながらそういう人との接触の数を増やしていたからこそ、ぽろっとつながりを持つことになったギャルだった。単純なもので、彼女とのセックス以降、ギャルを見ても怖くなくなり、僕は彼女たちに罵声を浴びせかけるようになった。ヤリマンだの、何も考えていないだの…。そうすると彼女たちからのウケは良くなった。そう言うとなぜか連絡が来る。なんとも不思議な気分だった。これがネグというやつだろうか。ネグは接待だ。つまらないから、つまらないと言うだけのこと。今でもそうやって人と接することがある。それしかすることがないから。

反対に、童貞っぽさ、内気さを残したまま人と接することもある。相手に興味を持ったときはいつもそうなってしまう。自分の中の相手への興味と、嫌われることの怖さとを抱えながら、じっくりと向き合う。そうやると、何か知らないけど好きになってくれる人がいる。そのときは僕も相手のことが好きだから幸せだ。

「ギャルとセックスしたいんです」と言うウィッグを被ったルソー君と歌舞伎町にいて、彼のことを見ながら自分のことを考えていた。彼は魅力的だし、女の子にモテるだろう。でも、ギャルにはあまりモテそうではなかった。いや、モテたとしても、ギャルをナンパするギャル男という感じではなかった。自分が誰に好かれるかが分かって、そうして好いてくれる人に合わせていけばすぐにセックスの数を増やせるだろう。でも、「ギャルとセックスしたいんです」という彼の切実な可愛らしい声を聞いて、その声が僕の身体をすっと通り抜けたので、反射的に「そっか」と頷いていた。

もし自分が女性だったら、彼とセックスするだろうか。そう考えたときに、「あなたとセックスするのはもったいない。」と言って去って行った人たちのことを思い出した。僕はすごく悲しかった。ひとときのセックスの時間があれば、そのときの僕のさみしさは癒されるというのに。だけど、安易に動かず、相手との想像の中のセックスに留まることで熟成されていく自分というものを、思い出しながら感じた。あのとき、セックスしたらどうなったんだろう。そう考える時間の幸せ。可能性が自分の身体の中に広がっていく。彼女たちがもし、したくないことを避けるためにそう言ったのではないとしたら、こういう感覚だったのだろうか。今でもそう言った数人の女性たちのことを思い出すことがある。それは彼女たちというよりも、そのときに現実化されなかった幾通りかの自分の可能性として。濃密な関係性を築いた他人とは、セックスはある種の儀式的なものになるものだと思う。僕が女性なら「ルソー君とはもったいないからセックスをしない」と言うだろう。

『宮台真司・愛のキャラバン――恋愛砂漠を生き延びるための、たったひとつの方法』

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社会学者の宮台真司さん、ナンパカメラマンの鈴木陽司さん、しんじ君と2012年7月に行った新宿ロフトプラスワンでのイベント「愛の授業」が電子書籍になりました。このイベントにいたるまでの、僕なりの経緯を書いていこうと思います。

僕は大学に入りたての18歳のときに対人恐怖症、パニック障害、うつ病になり、24歳くらいまで引きこもりでした。その間、色々な心療内科に行きましたが、治る気配はないどころか、薬漬けになり、薬を飲んでようやく外に出るも、その効果によって意識が朦朧としたまま外に出て、他人との会話などかみ合うはずもなく、飲食店で注文をすること、コンビニで何かを買うことさえも怖くて、それが出来るか心配で外になかなか出れないという状況でした。

そのときに出会ったのが、日本の総理大臣や大手企業の社長のカウンセリングもしているカウンセラーでした。数回のカウンセリングで今までの状況が変わり、薬を飲まずに外出が出来るようになりました。その人に憧れて、カウンセリングの道を志すも、自分のコミュニケーション能力のなさにうんざりし、ナンパをすることを決意しました。

それは今はなき、西麻布のナンパ箱エーライフの前を通ったときのことでした。自信満々な男性たち、自分を相手にしてくれなさそうな綺麗な女性たちが並んでいる横を通り、一体ここは何なのだと思い、家に帰って調べてみたのです。それが自分のクラブナンパの始まりでした。数ヶ月、どうしようか悩みながら、ナンパのサイトなどを見ていました。そのとき、僕が見たのがリーマンナンパマスターという方のサイトでした。こんな世界があるのかと、一体彼はどんな人間なのかと思いながら、彼の日記を読んでいました。

ある金曜日、決意してエーライフに行くも、怖過ぎて声をかけることも出来ず、テキーラを何杯も飲んで、フロアを何周もして、ふらふらになったまま外に出るという有様でした。

次の土曜日、悔し過ぎて、もう一度行きました。その前にリーマンナンパマスターの日記を読み漁りました。参考になることは特にない…ただ彼のナンパライフが記された日記でしたが、何か参考になることはないかと読んでいたのです。
中に入ると、一人の決して綺麗とは言えない女性が一人で立って飲んでいました。もうこの人に行くしかないと意を決して話しかけると、彼女はすんなりと話してくれました。すると…トイレに行っていた彼女の友人が戻ってきたのです。彼女は僕には声がかけられないほど綺麗でした。僕は必死に二人の女性と話しました。そうして、二人と電話番号を交換し、クラブから出て行きました。

その後、綺麗な女性に連絡をし、デートをして、セックスをしました。初めてのナンパの成功でした。

それから、路上ナンパをし、そこでも初めての成功を体験し、クラブナンパ、路上ナンパに明け暮れる生活が始まりました。ナンパは一度でも上手くいけば、あとは繰り返しです。そして、繰り返す中で、落とせる女性のクオリティを上げていくゲームになります。

(余談ですが、その途中には、あのリーマンナンパマスターとセックスをしたことがあるという女性と出会い、セックスをするということもありました。)

それから、カウンセリングの先生のもとを離れて、スカウトマンになりました。昼は女の子に声をかけて、夜は路上ナンパかクラブナンパ、或いはデートに出かけるという生活が始まりました。常に女の子に声をかける生活…。なんだかいつも自分の周りに靄がかかっているような、そんな生活でした。

そのとき、ナンパ師たちが集うというオフ会に参加しました。それがしんじ君との出会いでした。ナンパをしている人間は虚勢を張っているか、おどおどしているかで、僕はナンパをしながらも、クラブや街で見かけるナンパ師を好きにはなれませんでした。僕自身も結局はそうだったのだとは思います。その中で異彩を放っていたのが彼でした。彼と仲良くなり、いつしか「日本のナンパを変えよう」などと大きなことを話し合うようになりました。互いにスカウトマンをやりながら、ナンパもしつつ、情報交換をしながら、ネット上での情報の配信を始めたり、ナンパ講習を始めたりしました。彼の存在なしには今の自分がいることはないと思っています。今でも彼からは多くのことを学ばせてもらっています。

それから、この宮台真司さんとのイベントが実現しました。ずっと宮台さんのナンパに対する発言はネット上で読ませて頂いていました。その辺のナンパを賛美するナンパ師とも違う、ナンパを手放しに薦めるナンパを教えている人とも違う、ナンパというものをより広い視野で語っていることに興味を持って読んでいました。この人になら、僕の考えてきたこと、やってきたことをぶつけられると確信して臨みました。

「愛の授業」はそういう経緯で実現したものなので、僕としても思い入れのある出来事でした。

今この電子書籍を読んでみると、当時の自分は必死だったのだなと思います。自分がやってきたナンパというもの、恐れながら対峙してきた女性、他人というものについて、自分が感じて、考えてきたことを話したいという思いだけで口を動かしていました。

このときの僕は百数十人斬り程度です。僕よりもナンパが上手い人間なんて世の中にはいくらでもいます。そして、僕はこのとき既に、ナンパし続ける他人に依存している自分が嫌になっていました。ナンパ師としては、そうなった時点で伸びることはないでしょう。

イベントでは、他人に依存し、他人に救いを求め、依存していることを自覚しながら、他人を恐れ、他人を知りたいと思いながら、女性に声をかけ続けたことについて語りました。この本を読む人にとっては、どういう意味があるのかは分かりませんが、僕自身にとって、このイベントは執着してきたナンパという行為に終止符を打つための大切な時間になりました。

僕はナンパが素晴らしいものだとは思っていません。今では気が向いたときにたまに気になる人に声をかけて会話をする程度で、元々の人見知りの自分に戻っています。そんなに多くの人と話したいとも、他人と無暗に接することで自分の世界が広がるとも思っていません。ナンパを始める前と違うのは他人が怖いと思うことがなくなったということくらいです。この電子書籍が、他人と接することが怖い、どう接していいのか分からないという思いでナンパを始めた人、始めようと思っている人にとって、何らかの役に立てばいいなと思っています。

また、他人を通して自分を知ること、そして、他人に好かれる自分ではなく、素直な自分、自分が好きな自分になっていくこと。好きな人と好きなようにコミュニケーションが出来るようになること。そういうことを求めている人にも読んでもらえると嬉しいです。
(スマートフォンでもkindleアプリを入れれば読めます。)

イベントの前に書いた記事です。
土曜日の宮台氏とのナンパのトークイベントのこと
ナンパのトークイベントに向けて。印象深い夜のこと。