月別アーカイブ: 2013年7月

『ザ・ゲーム【30デイズ】』/ナンパを覚えたいなら、この通りにやればいい

『ザ・ゲーム』はナンパが出来なかったスタイルが色々なカリスマナンパ師と出会い、教えを受けながら、自分自身のナンパの方法を見出していくという話だった。読むだけでナンパがしたくなる傑作である。物語だけでなく、その中にもNLPや催眠などのテクニックがふんだんに盛り込まれていて、とても参考になる本だった。

『30デイズ』は『ザ・ゲーム』の後にカリスマナンパ師となったスタイルが、ナンパを教えてみた結果に書いた本であるように思う。ナンパを教えていると聞かれる様々な質問に対して丁寧に答えている。既にナンパが出来る人間からすれば「そんなもんは自分で考えろ」と一蹴したくなるような質問ばかりだ。だけど、それをクリアしていくというのが、ナンパを始めたばかりの人間にとっては気持ちを落ち着かせるという意味では重要な問題なのだ。

ナンパを始めようとしている人はこの本さえ読めば十分だと思う。気持ちを盛り上げたければ『ザ・ゲーム』も読むのが良い。スタイルが試行錯誤しながら、様々なことを見出していく過程を感じることが出来る。

この本のメインである「ザ・スタイルライフチャレンジ」には30日でナンパを覚えるための課題が書かれている。そこには洋服の選び方、姿勢、発声、身だしなみ、自信を持つための自己催眠の方法、声のかけ方、全く出来ないところから段階的にナンパを習得していく方法、知らない人と会話をするための方法、人に心を開かせる方法…などが書かれてある。ナンパをし始める人間の頭に浮かぶ疑問を全て、片っ端から解消しようとする著者の意気込みが伝わってくる内容である。
実際、この通りにやって上手くいかない人がいるとすれば…と思ったけど、恐らく、その人はこの通りにやっていない。どこかを飛ばしているだろう。それだけ、一つ一つの課題はときに困難でもある。

既にナンパが出来る人にとっても、この30日の課題はやるに値するだろう。自分が上手くいっているところ、上手くいっていないところを確認するための良い機会になる。

「ルーティーンコレクション」には、かなりの数のルーティーンが収録されている。それぞれを言葉通りに実行しては意味がないだろう。こういったルーティーンはセンスがなければ使いこなせない。この本にもその通りに書かれてあるが、30日をきちんとこなした人間にとっては役に立つだろうが、こなしていない人間にとっては何の役にも立たないだろう。『ザ・ゲーム』というと“ルーティーンを使って女性を落とす方法を模索するタイプのナンパ”と思われることが多いが、実際はそうではない。姿勢や発声など、“何を話せばいいか”以前のことを徹底して訓練したり、認識した結果に女性を落とせるようになった男性の物語だ。ナンパが出来ない人ほど、或いは出来ても下手な人ほどルーティーンに救いを見出そうとする。重要なのはそれではないが、そのことを知り、既に自分なりの自由な会話が出来るようになった人間にとっては、他人のルーティーンは非常に参考になる。クラトロさんのツイッターはそれの宝庫だ。(ただし、ある程度ナンパが出来るのであれば、である。出来ない人がやったら気狂いか変質者になる。)

最後の「スタイルダイアリー」には、ナンパを身につけた彼の苦悩が描かれている。色々な女の子と寝ても充足が得られないというナンパ師の典型的な苦悩だ。その苦悩を抱かない人間もいる。ただただ新しい女の子と寝るのがストレス解消であり、いっときの自信回復の薬のようになっている。そういう人はこの苦悩を嘲笑ったり、余計なことを言うなと思ったり、ナンパの講習をしながらこうしたことを言う人間を非難することもあるだろう。様々な女性とセックスをしながらも、常に観察者であり、自分自身に対して充足を感じられない彼の苦悩…だが、共感はし辛い。この文章には彼の自己顕示欲と自分への慰めが感じられるからだ。この部分はナンパ初心者には役に立たないだろう。一読者として、彼の苦悩はより良い形で文字にされる必要があるように思うし、まだそのときではなかったのだろう。

今、ネットでは様々なナンパに関する情報が溢れている。僕のブログもそうだろう。ナンパを学ぶだけなら、それらを読む必要はない。僕がナンパを始めようと思って読んだのはリーマンナンパマスターという人のサイトだった。そこにはナンパがし易いクラブの情報やそのときの会話の例などが書かれてあり、また彼の日記みたいなのもあった。振り返ってみると、役に立ったのは、クラブの情報くらいだった。あとは(そうなんだ…)と思うくらいのもので、実行は出来なかった。出来たのは、そのクラブに行って、テキーラを何杯か飲んで一人で必死に声をかけることだけだった。

僕も含めて、ナンパが既に出来る人間は好き勝手なことを書く。彼らの言葉を真に受けて、落ち込んだり、そのままのことを何も考えずにやり続けたりするのだけはやめた方がいい。僕もナンパ師のツイートやブログは殆ど読んでいない。それらは誰の得にもならないだろう。自分も早く誰かとセックスしなければと焦ったり、セックスすることが生き甲斐であると思い込まされたり、他人との比較に溺れて自分を見失ってしまったりするだろう。

スタイルは多くの人間にナンパを教えた。そして『ザ・ゲーム』を読んだら分かるように、彼は繊細に自分自身を見つめながら、ナンパを習得した。そして、他のカリスマたちを批判的に見る目を持っていた。今、僕がナンパをこれから始める人間なら、この『30デイズ』を読んで、その通りに実行する。他のものは一切見ない。そして、アメリカに住んでいたら、スタイルに会う。玉石混淆というより、石ばかりのこの世界の中で触れるべきものは少ない。そして、自分に納得が出来たときに、他の人を見て、自分自身について考えたらいいと思う。

『セックスから超意識へ』/社会の中でのセックスの発展

この本には、ラジニーシによるセックスについての五つの講話が収められている。

“女性が、男性が近づいてくるのを見て、その男性が欲望でいっぱいになっているとしたら、たとえ彼が彼女にとって親しい人であっても、彼女は彼のなかに友人ならぬ敵を見る。彼女にとって彼は、人間にすら見えない。それは地獄からの使者のようだ。”

僕には、この地獄からの使者の中でも、豪奢に着飾った者たちが人に欲され、着飾ることが出来なかったものたちは人間にすら見られていないように思う。

ナンパを教えていると、この社会にとってセックスとは、異性を落とすとは何だろうかということを考えざるを得なくなる。テレビ、インターネットでもそうだし、街の中に出ると、たくさんの広告があり、そして、その広告に影響を受けた人々がいて、その人々がまた広告そのものになっている。社会的に価値あるもの、皆が欲しがるものが溢れている。その溢れた横には、社会的に価値のないもの、誰も欲しがらないものもまた溢れている。

ナンパ講習には、誰にも欲しがられなかった人が来る。あるいは、「自分は誰にも欲しがられない」と思い込んでいる人が来る。彼らもまた、皆が欲しがるものを欲しがり、その結果、自分もまた欲しがられる存在になろうとする。

ナンパ師の願いは叶うのだろうかと考えることがある。可愛い女の子を惚れさせたい。可愛い女の子とセックスしたい。大雑把に言うと、それが彼らの願いであると言えるだろうか。ツイッターなどを見ていると、何年も前から彼らは同じことを書き、同じことをやり続けている。つまり、願いは叶っていない。彼らは何かを願い続けているのだ。願いが叶えば、人はまた別のものを欲するようになる。彼らが欲するものは変わらない。願いが叶っていないというよりも、それは本当の願いではなく、それに気づかないまま時間を過ごしているといった方が正しいのかもしれない。

この社会の中で、終わらない扇情を受け、絶えず何かを欲するように仕向けられている。それは誰でもそうだろう。可愛い女の子を見たり、過激なAVを見たり、派手な遊びをしている人を見たりすると、心の中がざわざわとする。それを手に入れたらどれだけ幸せになるだろうかと、そのとき思う。

ナンパをしているときに単体のAV女優と出会ったことがある。ふらふらと歩いていた女の子に声をかけたら、偶々そうだったのだ。僕は必死に口説いた。口説いたというよりも、人生の中でAV女優とセックスをしたという経験をどうにかして一度でも得ようとした。それは僕が社会に扇情され、洗脳され続けた結果だった。今から思うと強引な手を使って、彼女を無理矢理にホテルに連れて行った。その当時は催眠誘導を使ったルーティーンをいつも使っていた。悩みを話してもらって、催眠誘導をして、トランス状態に入ってもらう。それから、身体の感覚を鋭敏にする誘導をして、身体に触りながら性的な気分の高まるエロ催眠の誘導をする。これを使えば、長々と話をする必要はなかった。ショートカットだ。悩んでいる女性は話を聞いてくれる男性に身を預けたいと思うのだろうか。その当時の僕はそうだと信じていた。このルーティーンはそのプロセスを短時間で済ませてしまう便利なものだった。

ホテルに入ると、彼女は言った。
「私、セックスってどうやったらいいかわからないの。」
僕は何を言っているんだと思った。これからAVみたいなセックスが始まると思った矢先のことである。
「どうやったらいいか分からないけど、何をすればいいか言ってくれたらちゃんと出来るから言って。」
彼女は挿入されるのも痛いし、中でも外でもいったことはないと言う。これは、彼女一人だけのことだから、偶々そうだったということでしかない。だけど、そのとき、自分の今までのオナニーは何だったんだ…と思った。

彼女のフェラは音がすごくして派手だし、挿入するときには足を思い切り広げていた。AVで学んだやり方なのだろう。だけど、そのとき、僕は何をしているんだろうと思った。彼女に無理矢理にそうさせているという罪悪感。何も楽しくはないし、気持ち良くはないけれども、一度そういう職業の人とセックスをしたという経験を得るためにセックスをしている自分。その虚しさが分かっていても、やはりどうしてもAV女優とセックスをした経験が欲しくて、腰を動かしていた。

僕は人に欲しがられている女の子とセックスが出来た。そして、欲しがられている彼女も、それを手に入れようとした自分も空しい存在なのだということを自覚した。幻想は打ち破られなければ、いつまでも幻想のままである。空しくはあるけれども、これは自分にとっては非常に有意義な体験だった。彼女にとってどうだったかは分からない。彼女はいつも通り、男性に彼女自身を搾取されたと感じたに過ぎなかったかもしれない。しかし、そうして、自分が欲したものを得た者が先に進んでいき、得られない者は搾取されて取り残されていくというのが、社会の中で生きている人間のゲームの在り様なのだ。

『セックスから超意識へ』では、そうしたセックスをするなとは説いていない。それと同時にそうしたセックスを奨励もしない。また、セックスよりも瞑想をしろとも書いていない。瞑想をしなくて良いとも書いていない。どちらかに偏ることもなく、社会の中で人がどのようにセックスを捉え、発展していくのかが書かれている。

反対に、今、本屋などで見る恋愛やセックスに関する本には、どのように発展していくかということよりも、その症状と仮定された原因が書かれているものが多いように感じる。それは一般に知られている意味でのトラウマというものが、より人々の自己否定感を強めてしまっているのと同じことをしているのではないか。

“フロイトは、人類を性の解放へと導いた数少ない洞察力ある人のひとりだった。だが彼には、霊的なセックスが存在するという考えはなかった。フロイトが体系化した知識は、病める性についてのものであり、その研究は病理学上のものだった。”

ラジニーシはそれに対して、いかにセックスが発展していくのかを説いている。それは彼自身が発展したセックスを見出したからこそ出来ることなのだろう。

“呼吸が速ければ速いほど、性交のつづく時間は短くなる。呼吸がよりおだやかで遅ければ、それだけ性交は長くなる。そして、性交が長くつづけばつづくほど、セックスをサマーディへの扉、超意識への通路となし得る可能性がより大きくなる。”

“もしあなたが、苦々しさ、いらだち、避難をもってセックスに近づいたら、あるいは悲しみのなかでセックスに近づいたら、あなたは、あなたの魂全体で求め渇望しているその満足、その認識を得ることはけっしてない。
私はあなたに、あなたが陽気なときにだけ、あなたが愛に満ちているときにだけ、そして、最後に大事なこと……、あなたが祈りに満ちているときだけセックスに近づきなさいと強く言いたい。”

教えはシンプルで抽象的だから、分かり易いノウハウが書かれているわけではない。きっと読んでいるその人の状態によって、感じ方も違うだろうと思う。セックスを今、自分がどのように捉えていて、そして、それがどのように変わっていくのか、そのことを見つめ直すのには素晴らしい本だと思う。

『ホムンクルス』/ナンパとカウンセリングの教科書

他人を見たり、他人と話しているときに感じる違和感がある。
例えば…あまりに動かない身体の特定の部分があったりする。特定の話をし始めたとき、その人が実年齢ではない年齢に見える。例えば、三十歳の女性が十七歳の女子高生に見えたりする。話を聞いていると、頭の中に様々な空想が浮かんでくることもある。目の前のその人と自分の間の空気が硬く、真っ黒なものになり、身動きを容易にとってはいけないような気持ちになることもある。

これは特別なことではない。誰もが、他人を感じるとき、何らかのイメージや感覚を使っている。ただ、緊張して、他人を見ることよりも、自分自身を守ることを選んだときにはそのようなことは感じ難くなる。

『ホムンクルス』を読むまでは、そのようなことをなかなか他人と話すことはなかった。カウンセリングを学び始めたとき、先生に、どういう感覚でカウンセリングと催眠誘導をしているのかと聞いたときに、このような特殊な感覚を語られたことはあるが、なかなかそういうことを他人と話す機会はなかったように思う。それ以外には、滅多に出会わない、特別に感覚の鋭敏な女性に、そのような抽象的なイメージで僕自身のことを描写されたりすることはあった。

『ホムンクルス』はそのような感覚の宝庫だ。他人を感じるとき、自分の内面にはどのようなことが起こるのか。そのことが緻密に、豊かに描かれている。それはただの妄想癖とは違う。他人との関わりの中で変化していく自分自身の内面のドラマである。

作者の山本英夫さんと初めてお会いしたとき、この漫画を描くときに催眠を使うナンパ師の話を考えていたということを伝えて頂いた。僕も読ませて頂いて、これは催眠療法、カウンセリング、ナンパの話だなと感じていた。道で声をどうかけるかということは書かれていないが、読んでいると様々な女性と接する度に自分が女の子に侵蝕されて変わっていく感じを思い出した。

僕はちょうど催眠療法を学んでいるときにナンパをしていた。催眠療法やカウンセリングは学んでも、クライアントを探すのが難しい。だから、経験の少ない状態では知識は増やすことが出来ても腕を磨くことは出来ない。経験が少ない状態でクライアントが来ても、未熟な技術で恐る恐るやらなければいけない。それでは何かを試すことが難しい。

だから、僕はナンパした女の子に僕は試し続けた。彼女たちの話を聞いて、言葉で働きかけたり、セックスをしたりして、彼女たちの内面を変えていこうとする。悪い方に向かわせたことも多い。今から思うと、催眠療法を試したいというよりは、ただ他人の内面が、僕が関わることでどのように変わっていくのかを知りたかっただけだ。関われば関わるほど、僕は疲弊していった。それがまた充実として感じられた。だから、僕はいわゆる、セックスがしたいからナンパする、女の子が好きだからナンパするというタイプのナンパ師ではなかった。彼らはいつも陽気だ。僕はいつも陰気だった。ナンパをし続けても、結局僕は彼らのようになれる気配はなかった。他人に対する関心の持ち方が違うのだ。彼らはさらっと女性を扱う。僕はじっと向き合おうとしてしまう。決して、他人から見て楽しそうなものではなかったと思う。

「催眠を使うナンパ師」…催眠を使うから人よりもナンパが上手いというわけではないだろう。催眠を使うから、他人に侵蝕されて苦しむということだろうと思う。それを山本英夫さんは描きたかったのだろうか。僕自身は催眠を使えるようになってから、ナンパがそんなに上手くなったとは思わない。それよりも、使えなかったときよりも苦しむようになったと実感している。

漫画を読んでいるとそのときの自分の感覚が蘇ってきた。寂しくて、傲慢な感じ。当時、そういう自分を非難されたら怒り狂っていた。怒るということは、その通りだったからだ。自分が寂しい人間で、傲慢な人間であることに間違いはなかった。それは今でもそんなに変わらないように思う。

『ホムンクルス』の主人公はそれを繰り返して、どう進んでいくのか。変化していく彼のことを自分のことを見守るように追っていくと…そこにいくのか…という結末があった。人を見るということはこんなにもシンプルな形に収束していくのかと思った。事実、収束するようにも思う。収束しても、それでも、より繊細になることは出来る。終わりはないように思う。

他人はいつでも、僕自身への問いとして目の前に現れる。現れてしまった以上、無視は出来ない。無視したとしても、その問いはまた追いかけてくる。別の人間がまた同じ問いを僕に突きつけてくるのだ。納得出来るようになるまで、ずっとそのことから逃れられない。それがいき過ぎればおかしくなるかもしれない。ただ、それだけだろうか。おかしくなってしまう以外にも何か道はあるはずだと思う。

最後の方のセックスのシーンで、僕は代々木忠監督の作品を思い出した。男性に対して恐怖心を抱いていた女性が作品の中でセックスをして人が変わる。そして、最後に監督に「男って何だと思う?」と聞かれ、「男って私。きょうまで私は自分を敵にまわしていた。男の人も女の人も、私なんだ。私だから一体になって当然なんです。」(「なぜオーガズムは快楽の延長線上にないのか?」より)と答える。そのときの彼女の表情は充足していた。その後にどうなったかはもちろん分からないが、その瞬間はとても幸せそうだった。(その映像はアテナ映像30周年記念特別版 代々木忠の「快感マトリックス」 [DVD] に収録されている。)

「彼女は僕だ。」という感覚は、幸か不幸かは分からないが、僕にも訪れた。ある日の夜、とても深いトランス状態に入っていた。家の中に一緒にいた彼女もそうだったように思う。そのときふと彼女の顔を見つめると、何か自分を見ているような気がした。そして、自分の中にも彼女が入っているような、合わせ鏡がずっと続くような感じだった。セックスをしたかどうかは忘れたが、不思議な充足感が続いていた。そのときがあまりに透明で、もしこれが人生のエンディングならと思ったが、今までの経験上、こういうときにエンディングが訪れたことはない。また次の日、その不思議な充足感が自分の奥底に秘められて、新しい山あり谷ありの生活が始まるのだ。

人が人と関わる。都市の生活の中では、その人自身ではなく、個人の抱えている価値観、固定観念が関わりあっているように見える。僕はその人ではなく、その人の抱えているものしか、深く関わらなければ見ることが出来ない。その固く張り付いたイメージたちと向き合って、そして更に深くその人自身を見ようとするということはどういうことなのか。『ホムンクルス』はそのプロセスを通じて引き起こされる心理的なプロセスが見事に表現された作品だった。

ナンパをしながら、心理療法をしながら、また様々な形で他人と関わりながら、他人と自分自身を知りたいと思う人に是非読んでもらいたい。

ちなみに、アマゾンで2000円ほどで全巻購入出来ます。