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失敗したナンパ講習

有名ナンパ師による講習(高石さん編)

半年近く前に講習を受けられた方が感想を書いて下さっていた。ちょうど失敗するということについて、見つめ直さなければいけないと思っていた時期だったので、思い出しながら何度も読んだ。ナンパ講習でもカウンセリングでも、失敗というのはある。僕の中で確実に失敗だと思うものは、そのときに相手の変化を引き出せなかったときだ。クライアントがトランスに入り、彼自身を変化させるイメージが出来上がったり、彼自身を縛るイメージが解けていったとき、何かが変わったのが雰囲気で分かる。どうやってもそうならないケースがある。正直に書くと三ヶ月に一回ほどはある。当たり前のことだけど、僕は全てのケースをどうにか出来るわけではない。

失敗したと自分が思っていたケースは特に強く印象に残っている。僕はそのときのことをずっと思い出す。あのとき、どうすれば良かったのか、自分にどんな落ち度があったのか、或いは相手との関係性の中に何かはじめから不可能を予見させるものを見逃してしまっていたのではないか…。失敗したときはお金をもらわずに帰ることもある。自分にとってこんなに屈辱的なことはない。家に帰ってベッドに倒れ込む。それから、一日くらい、ベッドの中で考える。何がいけなかったのか、自分はこれを続けてもいいのか。

上に書かれてある感想には二つの重大な出来事が省かれている。はじまりと終わりの部分だ。

はじまりは彼の遅刻から始まった。三十分ほど遅刻するという連絡があった。僕はスカウトをしてから、人を待つことには慣れている。キャバ嬢、風俗嬢たちが遅刻するのはよくあることだった。彼女たちは三時間ほど遅刻した上、謝りもせずに「今着きました」というメールを普通にしてくる。そんなことを咎めていたら彼女たちをお金に換えることは出来ない。また、咎めて、人間同士のつながりを築こうとなどは思ってはいけない。そんなことをすれば彼女たちはすぐにいなくなる。そうした脆く儚い関係性を金銭が発生するまでに繊細につなぎ止める作業だった。近くの本屋で野口晴哉の『整体入門』を買って読みながら待っていた。三十分待っても来ない。まぁ来ないのだろうと思って、その日は読書の日にすることにした。それから二十分か三十分後くらいに、今着いたと連絡があった。

こういうときの気持ちの切り替えは風俗嬢たちとの付き合いで慣れている。怒っても仕方がない。だけど、これはナンパ講習だ。彼を風俗で働かせるために会うわけではない。出会って、彼の話を聞いた。しかし、遅れたことに真摯に謝るという気配がない。まぁ、そういう人なんだろうとやり過ごそうとしたが、どうにも教える気が湧いて来ない。このまま彼に何かを僕は伝えることが出来ないと思い、怒っていることを伝え、彼が遅刻したことについてどう思っているのかを聞いた。そのときの僕は、彼が書いたようなマザーテレサのような柔らかさなどは持ち合わせてはいなかった。この失礼なやつを一生他人と上手く話すことなんて出来ないようにしてやると思っていた。幸い、彼はそのことについて話してくれた。関係性は多少は築かれて、ナンパ講習を始めた。

だけど、ナンパをする気があるようには見えなかった。誰だって、可愛い女の子とセックスしたいと思う。それとナンパをしたいとは別の話だ。だったら風俗に行けばいいし、或いは合コンや出会い系だってある。いつか当たりを引くことがあるだろう。街にいる女の子に声をかけてセックスをする。それは、誰でも安直に持つことの出来る欲望だ。ナンパを始めるとき、目の前の安直な欲望にとらわれ過ぎて、それをやるにあたって必要な労力を想像することは出来ないのかもしれない。

「なんとなく、分かりますか?」「言われたことについてどう思いますか?」と僕が言うとき、それは相手の答えが返って来ないときだ。ただ受け取ろうとしているだけの人は僕が何を言っても頷くだけで、自分で捉えて、その捉えた結果を僕に示そうとしない。そういうときにこの問いかけをする。会話は共同作業だ。その共同作業を強制的に促す言葉だ。この言葉を何度も使った。自分が情けない。馬鹿の一つ覚えだった。

また、感想で省略されている終わりの部分だが、ここで僕は彼を罵倒している。様々な質問をしてくる彼に対して、僕はそんなことを質問する意味があるのかというようなことを言った。他の有名なナンパ師がどんな人であるかとか、あとは自分で考えたら分かるようなことを僕に聞いてくる。僕は彼を罵倒した。どう罵倒したかは覚えていないが、自分で考えることが出来ない馬鹿だと伝えたとは思う。そして、金と時間を使って、こんな罵倒をされて悔しくないのかと聞いた。彼は言われていることはもっともだから仕方ないと言う。僕からしたら言われていることがもっともだとか、そんなことなんてどうでもいい。馬鹿にされれば悔しいし、理屈なんて関係なく、思っていることを伝える。それから、そいつよりも能力をつけて悲惨な目にあわせにいってやると僕なら思う。彼は違った。納得しているように見せようとしてくる。もうダメかと思った。いくら関わっても、自分で考える状態を彼に伝えることが出来ない。そして、すぐに自己弁護に走って、他者との関係性を築くことから逃れようとする。いくら逃げようとするのを掴まえようとしても、僕には掴まえられなかった。

これが半年前の僕の限界だった。結局、僕に会ったという経験しか与えられなかった。そんなもの、そもそも誰にも与えたいと思っていない。僕に会ったからなんなんだ。僕は僕に会わせるためにナンパ講習やカウンセリングをしているわけではない。そうなってしまったのは僕の能力のなさが原因だ。今、こうして感想にも、都合の悪いことは書かれていない。結局、僕は彼に何も出来なかったのだということを突きつけられた。

それから、その失敗を糧にして、こういったケースの解決策をいくつか考え、試してを繰り返してきた。自分で考えて、試して、また考える。このプロセスを踏めない人が多い。それは恐らく、それまでの習慣的なパターンなのだ。黙っていても何かが与えられる。学校だって、会社だって、家族との関係でだってそうだ。その中ではわざわざ自分で考える必要なんてない。それは合理的な選択の方法だ。だけど、それでは大した能力もつかないし、いざ欲しいと思ったものが出来たときには試行錯誤が出来ない。それが出来るようになるための何かをそのまま与えてくれる人を探そうとしてしまう。そんな人、どこにもいない。

大切なのは学習のプロセスだ。小さい頃は皆、一生懸命に自分が関心を持ったものに向かっていく。最近、渋谷の宮下公園のサッカー場の前で昼間に気功をすることがある。小さな子どもたちがコーチのもとでサッカーをしている。彼らは一生懸命にボールを追いかける。シュートやパスに失敗したら大きな動作で落ち込んだりする。それから一秒後くらいにはまたボールを追いかけている。失敗を気にしないわけではない。失敗は悔しい。だけど、すぐに次にやるべきことに向かう。その失敗のせいで、もうボールに触れなくなったりはしない。彼らの身体と心の柔らかさを感じながら気功をしていると、自分が幼かった頃を思い出す。自分もそうだったなと思う。また、大人になった今でも、自分が何かに打ち込んでいるときはそうなっていることを思う。周りにどんなに馬鹿にされても、自分の中で見つけたちょっとした成長を見つけて、それを頼りに前に進んでいく。

僕はその学習のプロセスを彼に伝えるべきだったのだと思い出しながら反省した。はじめから上手い人間なんていない。だけど、ナンパなどは試行錯誤をすれば必ず誰でも上手くなる。上手くなる見込みがないと僕が思っていた人は、その学習のプロセスがないことが多い。きっと彼らが子どもの頃にはそれがあったのだろう。色々な周りからの影響で、恥ずかしさ、失敗してはいけないという不安、誰かの期待に応えなければいけないという義務感から、その学習のプロセスを失っていってしまうのだろうと思う。それをまた新たに身につけ直してもらう必要があったのだ。

カウンセリングにしても、ナンパ講習にしても、僕にとって過去の失敗は失敗でしかなく、修正することは出来ない。それを糧にして進むしかない。そのときそのときに手を抜いたりはしていないから、クライアントに悪いとは思っていない。それが実力であったというだけのことだ。僕は僕のためにカウンセリング、ナンパ講習をする。誰かを救いたいわけではない。だけど、ただ目の前に現れてくれた人には失敗を恐れずに全力を尽くす。そのことに集中することにしか興味はない。

カウンセリングについて思うこと

カウンセリングワークショップをしてみて、カウンセリングを人に教えてみたいと思うようになった。カウンセリングに必要なものとは何か…そのことについて考える機会が増えた。それによって、自分自身のカウンセリングのスタイルについても考えるようになった。身体の力を抜くために、カウンセリングやナンパ講習の前は走ったり、気功をしたり、システマのプッシュアップをしたりする。そうして身体の力を抜いた後、目の前のクライアントに集中しさえすれば、クライアントの身体の硬直、精神状態が僕の身体に写し取られるようになる。あとはただ、自分自身の中に流れるイメージをとらえ続けるだけだ。文字にすれば簡単だ。だけど、捉え続ける中に色々な緊張が生まれる。僕は本当に相手のことを理解しているだろうか、この話はどこに向かっているのだろうか、どこかに落ち着かせる必要があるのではないか、一体僕はクライアントの役に立っているのだろうか、これはただの言葉のトリックを使った詐欺ではないか。色々な心配事が心の中に浮かんでくる。それは全て、クライアントに関することではなく、自分自身のことだ。自分が目の前の相手に無能、詐欺師と思われたくないばかりに生じてくる緊張感だ。それを制さなければいけない。自分は別に役に立つ人間でも、優秀な人間でもない。ただ、今相手に必要とされ、聞いているだけの人間なのだ。自分自身の力を誇示しようとした瞬間に、様々な緊張に負けて、クライアントをどうにかして導こうとする下手なカウンセラー、ただの洗脳をする人間になってしまう。

初めてパニック障害の女性のカウンセリングをしたことを思い出した。僕が初めてカウンセリングらしきことをしたときのことだ。

ある日、僕が勤めていたカウンセリングの会社にパニック障害で悩んでいるという女性から電話がかかってきた。僕は未だ修行の身でカウンセリングをしたことはなかった。僕は先生にその人のことを伝えるために悩みの概要を聞いて、先生にそのことを伝えた。それから、先生がその話を聞いてどう思うかと数人いるカウンセラーたちに聞いた。いつもそうして誰が担当をするか決めていた。

先生は自己啓発セミナーもしていた。皆、先生の自己啓発的な方法論を彼女の悩みに当てはめた。つまり、治ったらどんな良いことが起こるかということをイメージさせるというものだ。僕はそれを聞いて、パニック障害はそんな簡単に治るものではないと思っていた。僕自身もそうだった。そんな安直なやり方をされたくない。また、自己啓発的なメソッドやコーチングなどは病んだ人には通用しないどころか、その人をより自己嫌悪にさせてしまう。

先生が僕ならどうするかと聞いた。僕は先生にパニック障害を治してもらったクライアントだった。自分が聞かれるとは思っていなかったので、答えを準備していなかった。少し黙った。心の中に入り込んだ。自分もパニック障害だった。乗り物に乗れなかった。行きたい場所にも行けなかった。自分はどうやって治ったんだ…何が辛かったんだと探索した。カウンセリングの経験もなく、未熟だった僕には、過去の自分自身だけが頼りだった。彼女は日常の中に嫌なことがある…本当はどこにも行きたくないのかもしれない…自分が何を望んでいるかも分からないのかもしれない…自分が何を望んで、何のためなら動けるのかも分からないのだ。
「多分…今、自分が治ったところのイメージは出来ないと思うんです…何を望んでいるかも分からないから、ただその現状について話を聞いて、何が嫌なのか整理して、その上でなら彼女が望むイメージは出来ると思います。」
正しいのかは分からなかった。ただ、咄嗟に自分の心の中に潜り込んで出した結論だった。

カウンセリングを教えてみて思う。とにかく相手を捉えて、自分自身に潜り込むことだ。そうすると他人の状態が自分の中に、身体に、精神に、生成される。あのときの僕はそんなことはよく分かっていなかった。偶々、そうやって考えることが出来ただけだった。

実際に行った彼女に対するカウンセリングでは、途中で考えてしまった。僕は解決しようとした。彼女が良くなるにはどうすればいいのか。安直に、彼女が乗り物に乗れたらどこに行きたいのかを聞いてしまった。電車に乗って友だちと花火を見に行きたいと言う。僕はそれについて「いいですね。」と言った。話を繋ぐのに必死だった。決して良いとは思っていなかった。何か違う。もし彼女がそうして用意した望みが、彼女の本心ならば、彼女はカウンセリングを受けるまでもなくそうしていただろう。そんなことすら気づけなかった。自分がカウンセラーになりたい一心で、愚かだった。自分のことしか考えていなかった。

こんなのはカウンセリングじゃない。今ならそう思う。だけど、僕は何をすればいいのか分かっていなかったし、ただただカウンセリングをしたかった。だから、彼女を治そう、変えようとした。だけど、そんなことを思ってしまった瞬間にクライアントはどうにもならない。それは僕のエゴ、他人を支配したいという欲求でしかない。

僕はその後、カウンセリングの会社を辞めてスカウトマンになった。僕を治してくれた先生と不和になって、怒りに任せてカウンセリングのノウハウを女性を風俗で働かせるために使い、女性をナンパで僕とセックスさせるために使い続けて、自分の技術を磨こうと試みた。だけど、振り返ってみたら、僕の技術は磨かれていなかった。ただ、他人のことをどうにか出来るということなんてないということを思い知ったに過ぎなかった。今でもやはり催眠やカウンセリングなどの技術を使う。それは自分が未熟だからだろうと思っている。本当に出来ることは見守って信じることしかないとは思っている。その感覚に集中出来るようになるには未だ足りていない。カウンセリング、他人と話すことには僕が未だ知らない先があるのだろうなということを思う。