月別アーカイブ: 2013年4月

ナンパ講習を続けて/自分の身体をリラックスさせる方法

ナンパ講習を受ける方には、その前に面談をさせてもらっている。色々な方がいるが、共通して言えるのは、社会に生きて、その社会に窮屈な感じ、圧迫されている感じがあるから、そこから脱するために講習を受けようとしているということだと思う。面談のときには、カウンセリングのような形で、その人にとっての社会とは、他人とは何なのかということを一緒に考えさせてもらうことになることが多い。社会…他人…人の多いところを歩くと、たくさんの人たちがいる。多くの人が身体にたくさんの緊張を抱えたまま、外に出ている。そういう人たちが、互いを知らない者として、外を歩くものだから、余計に緊張が強くなっていく。そして、その緊張を攻撃的に外に出して、虚勢として他人に提示する人間が、緊張して内側にこもってしまった人間を威嚇する。これが他人と関わるということだとしたら、とても悲しいが、しかし、実際に、これが他人と関わることでもあるのだ。ナンパをしていると、威嚇によって女性を惹きつけることが出来ることがあることも知っている。また、威嚇せずに、こちらがリラックスしていると、反対に惹きつけられないこともある。そのまま虚勢を張ること、威嚇することが他人と関わることだと思ってしまうと、自分の身体を守り、他人を攻撃する手段として得た緊張に、自分自身が傷つけられていく。

面談のときに、講習までにやってもらう、その人に合わせた宿題を出させてもらっている。たくさんの人にお会いすれば、その宿題のバリエーションも次第に増えていく。その中でも、誰にでも必ずやってもらうこともある。そのことについて少し書こうかなと思う。ナンパに限らず、日々の自分の状態を感じるためのものとして役に立つと思うので、よかったら参考にしてもらえたらと思う。

・寝る前にゆっくりと温かいお風呂に入る。または、銭湯に行く
身体の芯まで温まると、外に出ても身体が温かいという状態になる。このとき、身体全体が緩む。シャワーや、短い時間の入浴だと難しい。こうして身体の芯まで温まると、筋肉の緊張が緩んでぼんやりとして、記憶やイメージが自然と思い浮かぶ状態、トランス状態になる。筋肉の緊張には、記憶や感情が眠っていると言われる。筋肉の緊張がほぐれると、自分の中に溜め込んでいた記憶や感情が浮かんでくる。そうして、自分自身に対して、色々と思い直す、内省の機会が訪れる。

色々な人と会ったり、色々な仕事をしたりして過ごしていると、少しずつ緊張が溜まっていく。その緊張を消化出来ないまま毎日を過ごしていくと、どんどん身体中に緊張が溜まってしまい、行き過ぎると鬱っぽくなってしまうことさえある。毎日、そうして自分の心身の状態を整えるだけで、他人に抵抗されない柔らかい雰囲気にもなっていく。

・よりリラックス出来るようになるための自己催眠
身体が温まって緊張がほぐれたら、簡単な自己催眠をする。ゆったりとした呼吸を続けながら、数字を逆に数えていく。20からでも、10からでも何でもいい。数字が小さくなればなるほど、身体の緊張が吐く息とともに抜けて、身体の緊張がなくなればなくなるほど心の中も穏やかになっていくとイメージしながら。それだけでかなりリラックスした状態になることが出来る。大切なのは、この呼吸とイメージをする前に、身体の緊張がほぐれているということ。緊張がほぐれていると、トランス状態に入って、こうしてイメージによって身体が反応する状態になる。緊張して、トランス状態に入っていないと、身体の反応はなかなか感じられない。

・日常の中で呼吸が止まるときを探して、呼吸をする
僕が初めて北川さんのシステマのレッスンを受けたときから、これはずっとやっている。人間は恐怖を感じたり、不安になったりすると、緊張して呼吸が止まり、またその呼吸が止まることによってさらに緊張が強まるというのだ。普段は無意識にやっている呼吸だからこそ、その呼吸の状態を感じるのは意外と難しいが、呼吸が止まっているときに呼吸をきちんと出来るようになるだけで、飛躍的にパフォーマンスが向上する。

このことを教えて頂いて、ナンパでも全く同じことが起こっていると思った。まず、声をかけようとした瞬間には大抵呼吸が止まっている。呼吸が止まると、どうすればいいかと頭で考えてしまう。考えて不安になると、呼吸は止まったまま、さらに身体は緊張していく。そのときの解決策は、ただ呼吸をすること。よく「なんて声をかければいいか分かりません。」と言われる。そのときも「呼吸して下さい。」と言うだけだ。そう言われた当人はよく分からないというような顔をする。「女の子の横に行って、声をかけて、それまでも、それからも呼吸をし続けて下さい。何を言うかは考えなくていいです。ただ呼吸するだけ。そういうゲームだと思って下さい。ただ、呼吸をし続ける。それをきちんとしてもらえれば、僕が何を言っているのかが分かってもらえると思います。」そう伝える。受講者はわけが分からないまま、そうする。そうすると、意外にも話すことがぽんぽんと出て来るのだ。でも、途中で出て来なくて会話が終わって僕のもとに戻ってくる。「途中でまた何を言えばいいのか分からなくなりました。」と言う。「呼吸はしてましたか?」と聞くと、あ!という表情を浮かべる。

また、ナンパだけに限らない。日常の中にだって呼吸を止めているときはたくさんある。メールの送信ボタンを押す前、ホームで電車を待っているときに電車が自分の前に来る瞬間、難しい仕事に取りかかる前、人に会う前、人と話していて話題がなくなってしまったとき、レジでお金のやりとりを店員さんとするとき、職場に入る扉を開くとき…少しでも不安に感じたり、怖いと思ったりするとき、緊張しているとき、呼吸が止まっている。そのときに呼吸をするだけで、落ち着いて、普段のパフォーマンスを発揮することが出来るし、いつもとは違うやり方を思いついたりする。そして、常に自分の内側に意識を向けて、自分の感情に繊細に気づいた状態で、物事に取り組み続けることが出来る。

「モリマンディ上陸作戦」歌舞伎町で1200人斬りのナンパ師にナンパを教わってきた

自己啓発的なナンパ。それはなんだ。おかげさまで、色々な人が僕の講習を受けてくれたり、宮台さんとしんじ君とのイベントを見てくれたりして、それに触発されてナンパを始めたり、ナンパについて考え直すきっかけにしてくれている。彼らは、もしかしたら僕も、頭で考えがちになってしまうこともある。そのせいか、自分自身の変化に意識を向けるやり方が批判されることもある。僕がナンパを始めた頃に抱いていたナンパのイメージは…自分の息抜きや承認欲求のために他人を利用するものだったし、自分自身もそうして女性を利用し続けてきた。それは悪いことか。悪いと言う人は多いだろう。そうして利用されたことのある人はそう言うだろう。或いは、そうして他人を利用出来るだけのスキルがない人も嫉妬まじりにそう言うだろう。僕はそれに対して、別にいいじゃん、と思う。利用したいなら利用しろ。でも、そのときに自分も他人に同じように利用されているのだ。ナンパした女性を好きにさせて、こちらはセックスだけしたかったからした。こちらは相手の肉体と、相手がこちらに心を開くことを求めて、それを得た。じゃあ相手の女性はどうだ。彼女は、恋愛をしたいという欲求をこちらを利用して満足させた。自己陶酔と自己憐憫に任せれば、彼女はナンパ師を悪者とするだろう。だが、それはどうだろう。僕からすれば、彼女だって悪者だ。ディスコミュニケーションにも気づかずに、勝手に恋愛したというわけだ。他人を求める自分の欲求を、恋愛という丁寧にパッケージングされたものに包んで、暴力的にこちらに差し向けてきたわけだ。何だって、やりたければやればいい。だけど、やった後の責任は絶対に自分でしかとることが出来ない。それをロマンや論理で正当化したって、自分の行動から、自分の変化を引き出すことは出来ない。それはナンパ師も、そのターゲットとなった女性も同じことである。

モリマンディ・レイ…1200人斬りのカリスマナンパ師である。(本人は自称していないが、僕が勝手につけさせてもらった。彼はカリスマ的な魅力を持った人物であると僕は思う。)

友人が彼の講習を受けたと言っていた。その講習の詳細、彼自身のことは話に聞く限りはよく分からなかった。僕の講習を受けた方や僕のことを良いと思って下さっている方たちは即狙いのナンパというものを批判的に見ることがある。僕自身もそういう部分があった。僕は即を狙って、街に出た経験はない。クラブであれば、基本的に即を狙う。街に出るときは、用事があって出て、そのついでに声をかけて、連絡先を聞いて後日デートになるケースが多かった。スカウトをしていた頃は、即系の女の子に声をかけなければいけなかったため、声をかけて話をした後、そのまま誘惑に負けて即ってしまうこともあった。即を狙うというのは僕としては苦手な分野だ。得意なのは、相手と色々なことを話した上で相手のことを知って、それから互いがセックスをしたくなったらするという流れだ。それは恐らく、僕自身がすぐに他人とセックスをするということが苦手だからだろう。知らない人に身体を触られるのは苦手だ。まだ人となりも知らない人の性器を丁寧に舐めたりすることも出来ない。

平日の19時。彼の講習は始まった。

彼の服装はややお兄系というやつなのだろうか。黒っぽいが、清潔感がある。あとで本人も言っていたが、凄く容姿が良いというわけではないが悪くはない。テンポの早い話し方、リズムは一見粗野だが、その中に尋常ではない繊細さが流れているように感じられた。僕は緊張していた。自分がナンパを教えていることを伝えていいものだろうか。僕のハードルも、彼のハードルも上がってしまう。だけど、わざわざ会ったのだから、それを伝えずに、嘘をつきながら講習を受けることなんてしたくない。僕は自分のことを伝えた。彼もそういうケースはあまりないらしく、少し戸惑っているように感じた。そして、同時に、僕のことを、果たしてこいつは本当にナンパが上手いのか、と言うような感じで見ているかもしれないと思った。僕は明らかにナンパしそうな感じではない。話し方もギラギラもしていないし、髪型も武術をするために短く切って、以前よりもよりナンパしそうにない感じになっている。彼がそう思うのは当然だろうと会う前から思っていた。彼は丁寧にこの状況を咀嚼しているように思えた。咀嚼している彼を僕自身も感じ続けた。全くタイプの違うナンパ師がこうして面と向かい合っている光景を客観的に思ってみると、とても面白く感じられた。

「自分に何か伝えられることがあるかどうかは分からないですね。今のやり方で結果が出せているのならいいんじゃないかと思うんですけど。」
彼は丁寧にそう僕に言った。確かに、僕はもっとナンパが上手くなりたくて彼のもとを訪れたわけではない。今まで避け続けてきたナンパの中のナンパというもの、そして、僕が探した最も実力がありそうな人間の前に僕自身をさらしてみてかったのだ。
「僕のやり方を見て、悪いところがあったら遠慮なく言って下さい。」
その申し出に彼は快く了解してくれた。事前にノートとペンを用意するように言われていたが、ペンを使うことはなかった。そして、僕はその彼の話し方を見て、実際に話してみることで、殆ど満足していた。いつも僕が人に言っている。質問をするなと。ただ、相手を見て、少しの間きちんと相手と向き合って話せば、その人のコミュニケーションのスキルを自分自身の中に取り入れて、その人を糧にすることが出来る。

外に出た。
「じゃああの子、行ってみて下さい。」
「はい。」
指名されてすぐに行った。彼女は交差点で携帯をいじっていた。ネイルには向日葵がついていた。
「こんばんは。」
無視。
「それ…その向日葵…めっちゃ咲いてるやん。」
無視。
「そんな向日葵咲かしてどうしたん?向日葵好き?」
無視。だが、顔が緩んでる。
「困ってる?そんな向日葵のこと言われたことないやろ?」
彼女がこちらに顔を向けた。頬を緩ませていた。石原さとみ似の可愛い女の子だ。あさぺんさん的に言えば、オープンしたというところだろうか。
レイさんが入ってきた。
「ピンク好きなん?」
彼女はびっくりしたように、僕の顔、レイさんの顔を見る。こんな全く違うタイプの人間がコンビを組んでナンパしているなんて、なかなかないだろう。僕は彼女の目を優しく見つめ返し続けた。レイさんは彼女の目を見つめ続けていたが、僕とは違ってギラギラした感じが、熱量が、彼女の方に向かっていた。しんじ君を思い出した。
「ピンク好きなんやろ?」
彼女が黙りながらも、ニヤニヤしながら首を振った。
「待ち合わせ?彼氏おるん?男好きやろ?」
彼女は突然のレイさんの突っ込み具合に驚きながらも、彼の顔を見たり、僕の顔を見たりを繰り返していた。僕はレイさんのやり方を知るために、何も言わなかった。
「誰と待ち合わせなん?友だち?」
「うん。」
「男?」
「うん。」
「そうなんや、じゃあ今度遊ぼう。番号教えてや。」
彼女は戸惑った。レイさんの熱量は彼女の方に向かい続けていた。彼女は鞄から携帯を取り出した。そして、レイさんが彼女に番号を教えると、彼女が電話をかけた。レイさんの電話が鳴った。

他にも僕がしているところに入ってもらったり、二人で一緒にやらせてもらったりした。彼のやり方にルーティーンはない。いつも柔軟だ。相手をしっかりと見ているし、相手の言葉をしっかりと聞いている。その相手の反応に、凄い早さで反応している。さすがだと思った。

「なんか僕のやり方で不味いところってないですか?」
レイさんに聞いた。
「うーん…格好やな。君は自分でも分かってるやろうけど、格好良くはないやろ。もうちょっと髪型とか変えたら、もっと上手くいくと思うで。でも、なんか不思議やわ。変な雰囲気があるわ。トークも凄いな。全然服装のタイプが違う子でもなんか君の話を聞いて和んでるやろ。逆に勉強させてもらいたいところもあるわ。」
彼は謙虚だった。それと同時にはっきりとも言ってくれる。僕も彼のトークの鋭さ、切り返しの早さ、女性に対して彼が発している熱をぶつけていく量とスピードの凄さを感じていた。これ以上のナンパはないだろう。彼のやり方を失礼だと言う人もいるかもしれない。だけど、それは即をするということにおいて絶対的に必要なことだ。彼は合理的だ。それをもちろん僕は理解出来るから、とても魅力的に感じられた。コミュニケーションの一つの可能性を示していた。しんじ君と初めて会ったときを思い出した。

「ただ、君のやり方は女の子は和むけど、止まらへんやろ。すぐに止めて、損切りも早くせなあかんと思うわ。(僕はそのアドバイスをもらう前に、長くついていって番ゲをしていた。)それは女の子も君にそこまで食いついてないってことかもしらん。もっと、相手にやりたいって感じをぶつけていかへんと、即るまでに時間がかかり過ぎてしまうで。」
その通りだった。僕は即系を狙うナンパ師ではない。それが僕の長所であり、弱点でもある。
「容姿的にも、歌舞伎町の辺の若い子は難しいんちゃうかな。駅の方とか、別の場所とか、本当にええ女を狙う方が向いてるんちゃう?」
これもその通りだった。僕は即系の女の子には相手にされ難い。どちらかというと社会的にもしっかりとした人の方がやり易い。僕を尊重する意味でも言ってくれたのだろうが、彼の見立ては当たっていた。彼の指摘を受けて、何度か彼のやり方を試してみた。自分が酔っ払ったときとか、相当テンションが高いときのやり方だ。彼はこれだけのテンションを持って、毎回やっているのだ。

「いつもは一人でやってるんですか?」
「最近はそうやな。一人で出来へんのやったら、ナンパなんてせん方がええで。」
力強かった。僕もそう思って、一人でやることを人にはすすめている。即狙いのナンパ師は合流し合って、相手をイケメンだの、凄腕だの誉め称えて、互いの傷を舐め合っているというイメージが僕にはあったし、そういう光景をリアルでもネットでもよく見る。彼はその手のナンパ師ではなかった。高貴だった。

講習も一段落ついた。
「催眠術やるんやろ?なんかナンパにいいやつ、かけてみてや。」
彼の目を見た。綺麗な目だった。他人を吸い込める綺麗な目。トランス状態に入り易い目だった。彼のナンパの上手さは、表層的には強引さ、切り返しの上手さかもしれないが、本質的にはその感受性の強さのなせる業なのではないかと思った。
「分かりました。やってみましょう。」
手が固まる運動支配は簡単にかかった。それから呼吸をしてもらった。彼は僕の言葉を真剣に聞いてくれている。頭で捉えてはいない。純粋に、メッセージとして、心の中で聞いているのが分かった。僕の中で、この日に彼から伝えてもらって受け取った、テンションの高さ、相手に向かう熱の強さを、彼の中でより増幅していくように誘導した。催眠の誘導とは、分かり合うことだ。それを決定的に感じた誘導だった。彼も身を任せてくれて、僕も彼に身を任せたいと思った。彼の、ナンパのテクニックの内側に流れている繊細な感覚が、僕の中で呼応した。それは強く豊かな想像力であり、イメージを柔らかく自分の中で受け取れる感受性だった。その辺の即系狙いのナンパ師とは全く違うものだった。彼らは催眠の誘導をなかなか受け取れない。受け取る能力に乏しいのだ。彼が実力者であり、カリスマたる所以は、その繊細な感覚ゆえなのだ。
「どうですか?」
彼の目が少し潤んで、ぼんやりと歌舞伎町を見つめていた。
「うん。なんか違うわ。ちょっと行ってみるわ。」
彼が女の子に向かって行った。熱が増している。そのまま、女の子とドンキホーテに入って行って、数分後に一人で戻ってきた。
「なんかこれやばいな。いつも以上に行ってしまうわ。こんなになったら女の子が引いてまうわ。でも今、俺、めっちゃ面白いと思うで。」
凄い熱量が出ていた。
「でも女の子に突っ込み過ぎてあかんわ、戻してみて。」
トランスから覚める誘導をした。
「おぉ、こっちの方がいい感じやわ。」
いつも彼は抑えているのだと言う。ナンパしているときには、女の子への性欲と向かっていく欲求を抑えている。そうしないと、女の子が引いてしまうから。確かにそれだけの熱量を持っている人だった。僕は抑えない。流れていくものを全て相手にぶつけたい。それで相手が引くなら、わざわざその子とはコミュニケーションをとる意味がない。彼もそのことは分かっているだろう。だけど、彼ほどの熱を受け取れる女の子なんてそうそういない。成果を上げるなら、彼ほどの熱を持っている人間は抑えなければいけないのだろう。

講習も終わりに近づいた。最後に聞いた。
「僕は多分、150とか、200くらいの人としかやったことがないと思うんですけど、レイさんは1200人ですよね。そこまでやって、200とかのときと違うことってありますか?」
「そんなん一緒やで。」
彼はさらっと答えた。その一言を聞いて、僕は安心した。彼が言うのなら、そうなのだろう。
「なんでナンパをし続けてるんですか?」
「難しいこと聞くなぁ…」
街を歩いている人を見ていた彼の意識が、すっと内側に向いていった。歌舞伎町のドンキホーテの前の交差点だった。道路を車が走っていく先に建物や人が見える。僕も彼と同じように、遠くを見ていた。
「ええ女を即るのが好きやねん。そいつがエロい姿を見せるのがいいねん。そこまでいくところが好きやな。焼き畑農業や。やったら、燃やして、また次の収穫をする。そんな感じやな。」
彼の意識は一直線に歪みなく向かっている気がした。夜の九時の歌舞伎町の交差点だった。生きていく、ということを感じさせてもらった二時間だった。
「今日はありがとうございました。」
僕はお礼をした。
「こちらこそ。また普通に遊びたいわ。」
「そう言ってもらって嬉しいです。また会って下さい。」

彼の個人情報以外であれば、講習であったことはブログに書いていいと言って貰えた。

最後に、彼のブログは「モリマンディ上陸作戦」。講習費は二時間で二万円。
即系ナンパを習得したいなら、オススメしたいが、彼の手を煩わせないためにも、格好や清潔感は最低限出来るだけのことはして行ってもらいたい。僕の講習を受ける方にもそれはお願いしたい。自分で出来るだけのことをやって、その道について意識を向け続け、行動をし続けた人に会うことには意味がある。僕にとって、彼の講習を受けたことはとても貴重な経験になった。「服装はどんなのにしたらいいですか?」「最初の一言はなんて言えばいいですか?」なんて愚かな質問をするのは失礼なことだ。それはこの記事を読んで頂けたなら分かってもらえると思う。

映画『ザ・マスター』/人は何かマスターという存在なしに生きられるか?

映画『ザ・マスター』を観た。マスターとは、強い意味を持つ言葉に置き換えれば、教祖だろう。映画では、新興宗教の教祖とその教祖に仕えた男性の姿が描かれている。

誰にもマスターとする人はいるだろう。マスターを得た瞬間に、マスターの籠の中に閉じ込められる。それは悪いことではない。閉じ込められることによって、その部屋を内側から隈無く見ることが出来るのだ。閉じ込められるのは他人にだけではなく、何らかの行為であることだってある。薬物だったり、アルコールだったり、娯楽だったり…。依存症という言葉を僕はよく使う。恐らく、人よりも依存的な人間だからだろう。色々なものに依存してきて、今も何かに依存している。依存の終わったものについては、それが何であったかは分かるが、依存の真っ只中にあるときには分からない。それを指摘されたときには、少し不愉快な気持ちになったりするが、それがなぜなのかは自覚出来ない。

依存が行為やものに対してであるのと、人であるのとは少し違う。こちらがマスターに依存している場合、マスターもまた依存しているのだ。マスターに依存するのを悪いものと捉える必要はないと僕は思っている。それが、その人のことを知るための方法なのだ。反対に、遠くから、近づかずに見たところで、その人のことを知ること、そして、その人によって、自分の中に何らかの変化を起こすことは出来ないだろう。もしかしたら、そういう感覚が宮台さんの言うところの感染ということなのかもしれない。僕は感染し易い。宮台さんにも感染していると自覚している。僕に感染しようとしてきた人間にすら感染するくらい感染し易い。

人生の中でマスターを得てしまった人間は、そのマスターに対する深い感情があればあるほど、自分もまたそのマスターを離れたときに同じだけマスターになってしまう。愛すれば愛するほど、あとで憎むことになる。カリスマと呼ばれる人たちには、自分の中で消化し切れない、過去に仕えた経験があることが多いように思う。それは親に対してかもしれないし、それ以外の人に対してかもしれない。そうして、誰かに仕えることによって、人は俗称でいうところのメンヘラとなるのだ。彼らは他人を求めて彷徨う。彷徨っていることに自覚的でない人たちは、もっと彷徨う。自分を癒してくれなかった他人を恨みながら、また別の癒してくれる他人を求めて、その人に熱狂的になりながら彷徨うことになる。

幼い頃から影響を受け易く、人の話をひとまず鵜呑みにしてしまう癖のあった自分のことを思う。今でもそうだ。とりあえずは、そうなんだとそのまま聞いてしまう。僕は開き直った。それを悪いことではなく、自分の能力だと思って、様々なマスターに仕えてきた。始めの頃はマスターを恨み続けたこともあった。今では、ひと時でも僕のマスターとなった人たち全てに感謝している。それは僕も誰かのマスターとして扱われてしまったとき、その避け得ぬものを感じたからだろう。マスターはなろうとしてなるわけではない。他人の要請によってなってしまうのだ。

僕の知っている人に、仕えてしまう人がいる。だけど、その人は仕えていることを否定する。だから、彼は彼自身の能力を十分に発揮出来ていない。傍観者となることを決め込んでいる。仕えてしまうことが怖いのだろう。自分よりも大きな力があるということが怖い…わけではないだろう。その大きな力にのみ込まれてしまうことが怖いのかもしれない。彼はいつでも完全に仕えて、のみ込まれてしまう一歩手前で踏みとどまる。決定的なときに、うんと言えない。だけど、他の下らない、彼が怖いと思っていない人の言うことは、嫌々にうんと聞いてしまう。僕もそういうときがある。相手は僕が何でも聞いてしまう人間だと分かっているから、下らない頼み事などをしてくるのだ。それを拒絶出来るかどうか。そして、下らないことを拒絶したあとに、怖いものにのみ込まれる覚悟を決められるどうか。

誰かをマスターとすることは病的な他人との関わり方だろうか。今のところ、僕はそうは思っていない。誰しもが、マスターの前に立ち、仕えてのみ込まれ、マスターから去って行く。マスターの前に立ったままで居続ける人もいれば、仕え続け、のみ込まれ続ける人もいる。そして、マスターから去ってしまった人は、また違うマスターの前に立つことになるだろう。或いは、彼をマスターにしようとする人間が目の前に現れるかもしれない。仕える人もまた、マスターにとってはマスターである。他人はいつでも自分をのみ込もうとして待っている。

僕にも強烈なマスターがいた。その人は、僕の中では、日本で最も腕のある催眠療法士だ。何人もの有名な催眠の使い手を見てきたが、その人にかなう人はいかなかった。ミルトン・エリクソン関連の本を読めば読むほど、その人のしていたほんの些細な挙動や、ちょっとした一言が、どれだけ高度なものであったかが、勉強をすればするほど、僕自身が施術の経験を持てば持つほど分かった。その人のもとにいたときは、その人に依存して、そして大事にされればされるほど、どんどん怖くなった。何を言われても、僕はその人の言うことに従っていた。あるきっかけで別れたときはずっと恨んでいた。その恨みをエネルギーにして、彼が他人の人生を良くするために用いた方法を、反対に他人の人生を害う可能性のあるキャバクラや風俗のスカウトのために使い続けた。女の子に声をかける度に、自分の中に真っ黒な、自分をも害うエネルギーが漲るのを感じていた。今ではその人が自分にかけてくれた情熱を理解しているし、感謝している。そして、伝えてもらったものを自分の歪んだ気持ちとともに使うことは許されないことだと思っている。感謝出来るようになるまで、三年くらいかかった。僕の三年は、或いはナンパやスカウト、催眠は、その人とのことを納得するためのものでもあった。映画の最後に、その人への感謝とともに涙が流れていった。

映画の公式サイトでも「人は何かマスターという存在なしに生きられるか?もしその方法があるなら教えて欲しい。我々誰もがこの世をマスターなしで彷徨えるとは思わないから。」と監督からのメッセージがある。僕も自分が生きてきた中で、マスターなしで生きられること、そして自分がマスターになってしまうことのないことはあり得ないと思った。他人との関係、自分自身をどう活かしていくのかということを考えるにあたって、素晴らしい映画だった。

(余談になるけれども、催眠療法で前世退行催眠が流行していることの弊害を終始感じた。僕自身も催眠を使うと言うと「前世を見せてもらえますか?」と言われることがある。それは虚偽の記憶を捏造することでしかないと催眠の研究者には言われている。僕自身もそうだと思っている。ある程度の技術を持てば、催眠や他の様々なトランス誘導によって他人の信頼、コントロールを得ることは、信じ易い、誰かを信じたい人たちに対してするのであれば、それほど難しいことではない。そのことについては催眠やトランスを扱う人間として気をつけなければいけない。)

イベント「希望のない社会の幸福学」の映像と個人的な感想

 社会学者の宮台真司さんとqqilleとの新宿ロフトプラスワンでのイベント「希望のない社会の幸福学」のユーストリームのアーカイブです。

希望のない社会の幸福学1
希望のない社会の幸福学2
希望のない社会の幸福学3

 紹介のついでに、個人的な振り返りをしようと思います。話をさせて頂いた人間というよりは、一参加者としての、個人的な感想です。前回、同じく新宿ロフトプラスワンで「愛の授業」というイベントにも出させて頂きました。このときは僕はナンパをしてきて、更にそのナンパを教えてきた人間として、宮台さんに「これでどうや!」と言うために出させて頂いたという感じでした。ナンパは、人間関係は依存性があって、そこからなかなか逃れられない自分をどうにかするために、ナンパについて考えながらナンパをしたり、他人にナンパを教えたりする中で自分を見つめ直してみたりした、そうした試行錯誤の結果を、それを受け止めて下さる方にぶつけてどう思われるかを知りたいという一心でした。

 今回は、スポンサーにも協力して頂いたイベントとして、社会に対してどういう働きかけが出来るのかということを考えながら出させて頂きました。「愛の授業」でカリスマナンパ師という肩書きをつけて頂いてから、カリスマナンパ師と人から思われること、そう紹介されることがあるようになりました。カリスマナンパ師というと、『即系物件』の著者sanzi氏が僕の頭の中には思い浮かびます。失礼ながら、そうなっては絶対にいけないと思いながら、あの本を興味深く読みました。たくさんナンパしてセックスをしているからカリスマなのだとしたら、それはただのセックス依存症でしかないと思いますし、僕自身もそうであったことがあり、なんとかそこから抜け出そうとしていた経験があります。セックスをするために街やクラブを彷徨い、毎日あまりよく知らない人とセックスをしていました。かと言って、僕はナンパが上手いのかどうかというと、それもよく分かりません。以前、そういう記事を書きましたが、その記事について非難されることもよくあります。今まで、あれだけナンパの記事を書いておいて、ナンパを教えておいて、それはないだろうと言うわけです。特にそのことについては何も思うことはありませんが、僕は今まで他人のナンパを見て、上手いと思ったことはあまりありません。qqilleと初めて会った日に、彼のナンパを見たときには感動しました。彼もまた、同じ日に僕の口説きを見たときに感動というか、なぜ上手くいくのか分からない、不思議な気持ちになって見入ってしまったという話をしてくれたことがあります。自分のはどうかは分かりませんが、世の中には感動するようなナンパがあるとは思います。歌舞伎町や渋谷でナンパ師たちが集まってナンパをしている光景や、一人でナンパをしている人を見たことは何度もありますが、正直上手いと思ったことはありません。彼らと同じようなことをするなら死んだ方がましだといつも思っています。そして、それについていく女の子がいるのを見ると、苛々します。彼女たちのようなのがいるから、こういうナンパをして上手くやれていると思い込める人間がいるのだと。

 しかし、それもまた他人事です。僕が口出しをするべきことではないというのは分かっています。今回のイベントを通じて、深く考えなければいけないことは、自分が他人に何を出来るのかということだと思いました。カウンセリングの依頼や、ナンパ講習の依頼を頂いたとき、その人、一人一人に何が出来るのかをもっと深く考えなければいけません。特にナンパ講習を始めたとき、僕は自分がベストだと思うナンパをどうにかしてその人に身につけてもらいたいと本気で考えていました。それがどうやら違うらしいということをようやく深く考えられるようになりました。それによって、自分自身を肯定出来るようになった方もいれば、自己嫌悪になってしまった方もいるかもしれません。

 「愛の授業」で僕は宮台さんにカウンセリング、或いはナンパ講習をして頂いたと思っています。これだけのことを自分はやってきたということを伝えて、それからどうすればいいのかということを、宮台さんの反応を通じて知りたいと思っていました。あの映像がネット上にないのは残念ですが、宮台さんが僕の話を丁寧に受け取って下さる姿があります。(収録したものを頂いたので、一人で何度も見返しています。)僕にとって、ナンパをし続けた果てに、会いたい、意見を聞きたいと思ったのは、sanzi氏でもなければ、有名なナンパブロガーでも、ナンパ塾の講師でもなく、宮台さんでした。

 今、自分がナンパをすることは滅多にありません。「愛の授業」のあと、あれだけ依存症のように続けていたナンパをすることへの関心は薄れていきました。これこそがカウンセリングの結果だと思います。「愛の授業」当日の朝、今日でナンパがやめられると思ったときに自然と涙が出て来たことを思い出します。

 ナンパ講習の依頼を頂くことは続いています。「愛の授業」のとき、宮台さんはもしかしたら、あの場で僕のような人間に、ナンパの話を延々とされるということは思っていなかったかもしれません。ナンパ講習はあの日の自分の体験を大切にしながら、宮台さんほどではないにしても、講習を申し込んで下さった方にあのようなことを体験してもらえるような場に出来ればと思っています。

 自分のことをカリスマナンパ師だと思ったことは一度もありません。イベントのための肩書きとしてあっただけで、誰からも思われていないかもしれません。役割は自分で作るものではなく、他人に与えられるもので、その依頼があれば、自分に出来る限りのことをさせてもらうだけだと思っています。依頼がある限り、それに応じられるような技術を培って、何かしら他人の役に立てる人間でありたいと「愛の授業」「希望のない社会の幸福学」を通じて思わせて頂きました。

 こうした機会を作って頂いて、自分を変えるこれ以上ないきっかけを下さった宮台さん、いつも僕の突っ込んだ要求にも応え続けてくれるしんじ君、イベントに来て頂いた方、見て頂いた方に感謝しています。