月別アーカイブ: 2013年2月

ナンパの失敗学

今度よぅしさんにナンパの講習をして頂くことになった。彼も僕が彼にお願いをすることは分かっていただろうと思う。恐らく彼は、講習をするにあたって、僕のブログを参考にしてくれている部分もあると思う。もし参考にしているのなら、僕が一体何を望みながらこんなことをしているのかも、抽象的な形であれ、予想出来ていると思う。講習までに受けるにあたっての想いをブログかツイッターに書くように伝えられたので書こうと思う。それは元々書こうと思っていたことだから、より遠慮なく書けるということに感謝しているし、さらに、彼がナンパ講習とはどういうものなのかということを深く考えているのだということが、その提案に如実に表れているのは誰でも分かると思う。

僕はナンパを教えてきた。今まで教わったことはない。あるとすれば、三回くらい、教えてもらったという実感のある機会はあった。まずはそのことを書こうと思う。

ホストを少しだけしていたときのこと。小さな小汚い出来たばかりのホストクラブだった。お客さんが来ないので毎日六時間ほど外でナンパをさせられる。そのときに、他の店で経験のある男の子と一緒に毎日ナンパしていた。彼のやり方は完全にルーティーンだった。女の子の血液型を当てて、その子の性格についてやや上から話す。それから突然黙ったり、関心のないふりをする。そうすると女の子は距離を縮める。何も内容のない会話なのにどんどん女の子が彼に惹きつけられるのを見て、僕は衝撃を受けた。その彼のやり方を毎日隣で見て覚えた。

それからスカウトをしていたときのこと。毎日、長い時間瞑想をしないと怖くて声をかけれなかった。その自分に対して上司が出勤前に電話をしてきた。
上司「何しとんや。また瞑想か。」
僕「…はい。」
上司「ええから、出てこい。」
僕「いや、ちょっと…。」
上司「待ってるからすぐ来いよ。分かったな。」
僕「はい…。」

という電話。コンディションを整えずに声をかける羽目になった。そうすると二回目くらいの声かけで女の子から電話番号を聞けた。そのときはコンディション絶対主義のようなものに自分は陥っていたのだった。だけど、コンディションはあまり関係がなかったし、かけることによってコンディションはすぐに整うのだということも分かった。

ナンパ師オフ会でしんじ君に会ったときのこと。彼のナンパは衝撃的だった。(彼に対するその当時の印象:性とナンパについて渋谷で考えている人間について)他人への強い関心の出方と落ち着きとがその当時の自分にはないものだった。当時の僕は柔らかく、相手に抵抗されないようにするということを絶対視していた。彼のナンパを何度も自分で真似してみて、相手に瞬間的に入り込む感覚をトレースした。今でも彼のナンパの動画を撮って、その数十秒の動きを何度も見てナンパとは何かということを考えたりしている。

これから日本ではこういったナンパビジネスがどんどん増えていくのだと思う。僕はいつ手を引くかということをずっと考えている。今のところ、やれることはそこそこやったつもりだし、発見も次第に少なくなってきた。ただ、僕はナンパの講習を受けたことはない。3月13日に新宿ロフトプラスワンで社会学者の宮台真司さんとやらせて頂くイベントがある。その前に一度この経験をする必要があると思っていた。しんじ君にお願いするのも、友人同士だから距離が近過ぎるし、この記事の後に書くつもりのナンパ講習の僕が理想とするものには適任ではない。また、他のナンパ講師はブログを読む限り論外だ。講師を選ぶにあたって、彼のナンパが上手いかどうかなんてどうでもいいことなのだ。彼が見る目を持っているかが大切だ。反対に、ナンパは見る目を持っていると上手くいかない。見る目を持ってしまった瞬間に硬直してしまうだろう。誰かを選ぶことはそうそう出来なくなる。往々にして、成果をあげ続けている人間は教えるのが下手だろう。彼はナンパに没頭しているのだ。自分を客観視出来ないから、そこまで没頭出来てしまうのだ。

ナンパを教えることの快楽は他人の失敗を見ることが出来るということだろう。誰が話を聞くかなんて確実には分からない。あの女の子に、彼が声をかけたらどうなるだろうか。彼はどのようなところで、あの女の子に拒絶されるだろうか。もし拒絶されない方法があるとすれば、どういったものがあるだろうか。そう考える。僕は彼を使って、その結果を知ろうとする。ある程度の成果を上げると、同じかそれ以下の機会を繰り返すことが億劫になる。同じかそれ以下の価値を持つような機会でさえも、失敗の可能性を多く含んでいるのがナンパだ。だから、その失敗を敢えておかしたいとは思えなくなる。反対に、それ以上の価値を持つような機会であれば身体は自然と動く。その機会によって、未知の自分に出会うことが出来るのだ。僕は、僕にとってはもう試みたくない機会に向かっていく人たちを見続けてきた。彼らにとっては、試みたいと思っていることだろう。僕はその試みをどうにか成功させるために出来ることはないかと考えて、そのために誘導をする。僕は恐らく数千ものそういった機会に恵まれた。僕は不安症だ。何度それを試み、見続けても、それが上手くいくかどうかは結局は分からないという事実にぶつかってしまう。

ナンパを教わるということの快楽は他人に失敗を見てもらえるということだろう。失敗から学ぶことは多い。失敗には、それを成功に導けたはずの多くの可能性が隠されている。もし僕がある女の子の電話番号を聞けなかったら殺されることになっていたら、僕はどんなことをしてでも電話番号を聞こうとするだろう。それが可能性というやつだ。残念ながら、日々の動きは失敗したら殺されることを前提としてはいない。もし僕がナンパ講習を受けるとしたら、その心構えで受講中の数時間を過ごすだろう。

セックスをしたいからナンパ講習を受ける人間なんて世の中にはいない。それなら講習を受ける必要なんてない。皆、失敗したいのだろうと思う。そして、その失敗を活かして、別の人間になりたいのだろうと思う。そんな機会はそうそう作れない。だけど、ナンパは、というよりも、他人という予測出来ない存在は、その機会を常に作ってくれるのだ。だから、皆、ナンパの講習を受けるのだと僕は思っている。

僕は多分、講習中、よぅしさんの姿を見ないだろうと思う。よぅしさんのいるところに、自分の姿を見る。彼は自分のナンパの実力を誇ってはいない。彼はその辺のナンパ師のように、自分がナンパが上手いからナンパを教えているのではない。恐らく、失敗がしたくないのだろう。失敗に対する人一倍強い恐怖心が彼を他人の失敗を見ることに駆り立てていると僕は勝手に思っている。そういう人間にしか、ナンパを、コミュニケーションを教えることは出来ない。もし彼が自分の実力を誇るナンパ師だったら、その傲慢さが雑音になって、彼のいるところに僕自身を完全に見ることは出来なくなってしまう。僕自身がいつも、そのことを意識して、ナンパを教え続けてきた。僕にナンパを教わる人間にとって、僕がナンパが上手いかどうかなんて関係はない。ただ、僕は声をかける人間と同じかそれ以上の恐怖心をもって彼の声をかける姿を見続けている。それがカウンセリングであり、トランスに入ることであり、透明になるということだ。そこに自分の姿を置いてはいけない。誰よりも他人に対する、失敗に対する恐怖を感じる感性を持ちながら、自分自身を消すこと。それがナンパの講習だと思う。

よぅしさんの講習を受けさせてもらって、そう思ってやり続けた自分のことを振り返りながら、その受講生そのものになることで、その対岸に位置する両者とは別の立つ場所のあることを感じたいと思う。

鞍馬山

鞍馬山に行った。以前武術の個人レッスンをお願いした山口さんに薦めて頂いていたので、一度行ってみたかった。ここはレイキの創始者である臼井甕男が瞑想をして天啓を受けたという、レイキ発祥の地としても知られている。僕は瞑想とか、気功とか、スピリチュアルとか、パワースポットとか、トランスとか、そういうものは常々怪しいものだと思っている。だからあまり人には薦めない。個人的には好きでやっていて、なかなか素晴らしい効果があると思っている。だけどそれは、求めれば得られないという厄介なものだ。今回、僕は鞍馬山に何かを求めてしまっていた。一体どんなことが自分の心身に起こるのかと期待していた。その前日などは、自己催眠をして、鞍馬山に行ったらこんな風になるという感覚を味わって、いつも以上に部屋の中で気持ち良くなっているくらいに期待をしていたのだった。

鞍馬行きの叡電の窓の外には北に上るにつれて雪が降り始めていた。鞍馬に着くと雪が重く降っていた。寒かった。淡々と駅から鞍馬寺まで歩き続けた。周りには二人組で観光している人が多かった。早くそのパワースポットと呼ばれるところに行きたかったので、彼らを追い越しどんどん登っていった。そこに行けば、自分の心身の状態が確実に変わり、悩んでいたことへの答えが出るのだと思っていたのだ。鞍馬寺についた。いい感じだが、南禅寺に初めて行ったときのような強烈な感じはなかった。寺から出て、さらに先に進もうとした。が、なんとなく振り返ると、寺の前の広場が気になった。人が集まって写真を撮っているのが見えた。寺の前に戻ると石の組み合わせによって円の模様になっているものがあった。パワースポットと言われている魔法陣だった。

魔法陣はその寺の前にあったのだ。僕はその魔法陣に向かって宇宙から降りてくるエネルギーとやらに鈍感だったようだった。魔法陣には人だかりが出来ていた。皆、その魔法陣の真ん中に立って写真を撮ったり、立ったままどんな感じがするかを同行者に伝えたりしている。並んでいるし、真ん中に立つのはなんか嫌だなと思って、端っこに立ってみた。立って、寺の反対側を向いた。そこからは遠くの山が見えた。うん。どうやら自分は焦っているらしい。なんだか上手く感じられていない、自分の身体の中に周囲のものが入り込む余地がないように思えた。それでも来てしまったのだから仕方がない。先に進むしかない。その先には大杉権現社という瞑想する場所がある。その場所に行ってみたくて来たのだ。

今でも思い出すと寒気がする。誰もいない山道を歩いていくと、杉がたくさんある場所が現れる。その杉の間をさらにまた歩いていくと大杉権現社というという建物がある。ここは山の中だ。静かなのは当然だ。それでもこの場所は一際静かだった。その建物の中に入ると、ベンチが四つほど並んでいた。僕は折角だからとそのベンチに座って、少し目を閉じた。急に外の風の音が強くなった。ビュウビュウと風が吹いている音が聞こえた。ゾッとした。外に出てみると、吹雪いている。僕は山というものに全く慣れていない。突然きつくなった風の音を聞いて、ここは山なのだということを初めて認識した。遠くには太陽の光があった。だけど、僕がいるところには吹雪があった。寂しさとともに恐怖を感じた。ここで引き返すかどうかを迷っていた。真っ白な雪景色、風、雪、静けさというものがこんなに恐ろしいものだと感じたのは初めてだった。同じ自然の中と言っても、代々木公園でちょっと一人で気功を気持ち良くやっているとか、そういうことじゃないのだ。進むことにした。

木がぐらぐらと揺れる音が聞こえた。熊が出るからこの中には入らないようにと書かれた標識があった。また恐くなった。僕は恐がりだ。こんな普段は皆が観光に訪れる場所で吹雪いたくらいで怖がっているのだ。でも怖いのは事実だった。また少し止まって進むかどうか考えた。なんだか奥に行けば行くほどみぞおちの辺りをぐっと掴まれるような感じがするのだ。それは僕がただ恐がりだからなのか、そういう場所だからなのか、僕には分からないが、さっきよりも躊躇しているのは事実だった。周りには誰もいないし、何もない。山道の雪景色が広がっているのみだ。ナンパ用語で地蔵というものがある。声をかけたいけどかけれなくなったとき、人は動けなくなる。そうして声をかけられないままになることを、地蔵のように動かないという意味で地蔵と呼ぶ。僕は地蔵だった。ここは街ではない。誰も僕の姿を見ていないし、誰も僕を拒絶はしない。断られることもない。そういう環境の中で人は地蔵になるのだ。一体僕は何と戦っているのか。そう問われれば、単純に恐怖心とだと明確に答えられただろう。今度は帰ろうかと思った。これより先に進んだら、もう引き返せない。そのまま鞍馬駅と山を一つ挟んで反対側にある貴船神社の方に降りていかなければいけない。悩んで立っていた。立っていることすら怖かった。肝心なところで逃げてしまう自分のことを思う。ここで逃げたらこの先の人生でもそうなるに違いないという思いもあれば、冷静に、先に進んだら危ないかもしれないから帰る方が懸命だという思いもあった。こういうとき、人は勝手に内省を始めるのだと思った。関係ないようで関係あるようで、関係があるのかどうかは分からない。でも、関係があるような気がしてしまうのだ。実際には関係があるのかもしれない。分からないけど、進むことにした。進んでいくと気がついたらみぞおちを締め付けるような感覚は消えていた。

先に進むと魔王殿という建物があった。なんだか落ち着く場所だった。そこにもベンチがあり座ることが出来た。また座ってみた。今度は目を閉じずにいた。既にトランスには入っていることに気がついていた。トランスに入ることは求めれば与えられない。気がついたら突然入ってしまっているものなのだ。その建物にはなぜか上の方に斜めに鏡がかけてあった。その鏡に近づいて、斜め上を見ると自分の姿が映るようになっている。なぜここに鏡があるのかは分からない。だけど、ここに自分の姿を映してもいいものだろうかと考えさせるようなかけ方だった。…見てみた。自分の姿が映っていた。とんでもなくやつれた顔をしているかもしれないと思ったが、しっかりとした顔つきだった。そうか…と特に何も思うことなく出発した。そこからは淡々と山道を下っていくだけだった。道路が見えていた。吹雪はやんで、晴れていた。道路の脇にある川の流れの音が聞こえる。車も通っている。先ほどまでの緊張感はなく、ただ山道を歩いているだけだった。

帰ってから、鞍馬山のことを突然思い出す。その瞬間瞬間の景色と、そのときに自分が感じていたこと。そのときは必死だったから、そこがパワースポットだとか、トランスがいつもよりも深まっているだとか、そんなことは考えたり感じたりする余裕はなかった。僕は京都にいて、少しだけ仕事をして、他は数人の友人と会ったり、あとは一人でカフェなどに行って、ぼんやりしたり、本を読んだり、文章を書いたりしていただけだった。新しい出会いを求める…僕の中からそんなものは完全に消えてしまっている。知らない人と出会って、知らない人の価値観を知って、そこから新たに自分のことを発見する。確かにそういうことは今まではずっと考えていたが、そんなものは必要だったのだろうか。今は少数の友人、そして仕事の関係で出会う人と会うだけで、殆ど人と話さない日が続くこともある。世界を広げることよりも、その閉じた世界の中の方へと意識を向けて、ずんずんと自分の中に入っていって、引きこもりになるんじゃないかというくらいに入っていって、そこで思い浮かぶことに身を任せることを大切にしている。そうして自分に集中しているとき、考えることは夢にも出てきてしまう。特に危惧していたことは夢に出てくる。そのとき、自分のやり方は間違っていたんじゃないかとか、そんなことを思う。ようするに悪夢だ。でも、既にやってしまったことは仕方がない。数日後、そのやってしまったことに対する結果が出た。結果は喜べるものだった。良かったと一安心する。正しい答えは誰に聞いても分からないのだ。一人で考えて、行動して、結果を待つしかない。或いは、正しい答えを求めようとしたときに、迷いは生じるのかもしれない。そのときに全身全霊をかけてその選択をとったのならば仕方がない。それによって自分がどうなったって仕方がないと思える。悩んでしまうのは、そのとき選択した自分の中に何らかの曇りがあったからではないか。もしそのことについて考えるならば、その曇りについて意識を向けないといけない。向けて、曇りがあったのなら反省する。それだけだ。自分の、自分だけで完結している小さな世界。それをいかに自分で見つめて、その中に満足を見出せるかという問題だ。

鞍馬山は修行の場所だと言われる。自分を社会に向けてどう打ち出して、どうお金にするか、どう満足を得るかということを、社会の中で生きていると考える。そうしているとどんどん自分を消費されるコンテンツとしてしまう。また、最悪なときには、コンテンツとして消費してくれる人を自ら探しに行ってしまう。それは不幸なことだと僕は思う。そういう考えはなしにして、目の前のことをやるしかない。やっていく中で、人に必要とされたのなら、その役割を全うすればいい。自分から必要とされにいっても、消費されてしまうし、そうすることによって自ら自分を食い尽くしていってしまう。

鞍馬山に行ったこと。これがカウンセリングだとしたら、僕は完全にうまくカウンセリングをしてもらっていた。そして、僕にはまだ、カウンセリングであの雰囲気にあるようなものを作り出すことは出来ないことを認めなければいけない。僕は大きな謎の中に投げ入れられて、帰ってからもずっとあのときのことを思い出している。素晴らしいカウンセリングだったと思う。鞍馬山のすごいところは、行ったときの感じよりも、帰ってから、ことあるごとにその風景やそこに行ったときの感覚を思い出すことだ。行ってすっきりしたというよりも、自分の人生に対する向き合い方に以前にはなかった濃密な意識の向け方がなされるようになった。

何もない、人気のない場所というのはこういうところなのだという感覚を味わえた。街にいると他人が勝手に見えてしまう。鞍馬山には他人がいないし、人の気配がない。だから、いつもどれだけ自分が人を見てしまっているのかが分かった。見えないと、自分に意識が向く。そうして自分に意識が向いたとき、自分の中にあるものが風景の中に現れ始める。帰ってから、街の中で鞍馬山にいるときの感覚を思い出すようにしている。そうすると、目の前のものに翻弄されずに自分の感覚でしっかりと見ることが出来る。恐怖や不安がない。それらの自分の思い込みが外れて、ただ相手を見るということを理解出来るようになった。そういう能力を授けてもらった体験だった。

ナンパを始めるにあたって参考になる記事のまとめ

世の中には無数のナンパブログがある。それらは玉石混淆で、本人に実力がなければ信憑性がなく、言語能力に乏しければ意味が分からず、自己顕示に偏れば他人が読むべきところはなく、ビジネスに偏れば情報は出し惜しみされる。この記事では僕がナンパを始める人の立場になってみて、必要だと思われるものをまとめてみた。とりあげさせてもらったブログは、全て僕が実際に会ったことのあるナンパ師のものである。自分のことは何とも言えないが、彼らは実際にナンパが上手いので彼らの文章を疑いを挟まずに読んでそのまま実行して頂ければ必ず得るものがあると思う。

ナンパのブログは色々読んでみたけど、結局のところノウハウを知りたければ、しんじ君の「性とナンパについて渋谷で考えた」とクラトロさんの「ナンパはスポーツ No Girl No Life!」が有益なことが書いてある上に読み易いかなと思う。よぅしさんの「梯子を投げろ」もナンパのやり方について分かり易く書かれてあるものが多くとりあげさせて頂いた。クラブナンパについては御子柴さんの「御子柴清麿のクラブ放浪記」のサルでも分かるクラブナンパ講座がオススメ。また他の良い記事を見つけ次第少しずつ足していきたいと思っている。

僕の書いたものについてはナンパマニュアルを書いてあるので、そちらを読んで頂ければと思う。

 

ナンパとは何か

ナンパ師のUSTを聞いてナンパ師が考えた
クラトロさんが「ナンパの手帖」について記事を書いてくれたもの。このUSTでは世間の人たちに向けて、ナンパとはどういうものか、その実際を集客を目的とするような誇張を一切なくして語り合った。そこにクラトロさんがコメントをつけてくれている非常に嬉しい記事。ナンパを始めたばかりの人に、一体ナンパとはどういうものなのかを知ってもらうために適していると思う。

「性とナンパ」のqqilleさんに会ってきた
ナンパを上手くなろうとするってどういうことなのか。この記事を読んでもらって考えてもらいたい。出来れば、これだけの情熱がないのなら、ナンパを始めることはやめた方がいいと思う。

ナンパからセックスまでの具体的な流れ
“俺の勝手な男女観だけど、男と女は根本的に惹かれ合うようにできてるわけだから、あとはその大きな流れに逆らわないように、この2つの方向性(心理的障壁をなくすことと認知判断を低下させること)を意識しながら個々に具体的問題を解決していけばいい。”
しんじ君の記事の素晴らしいところは、ナンパを殆ど知らない人が何を知りたいかということを抑えているところ、そしてそれに対して明確な結論を出しているところだと思う。この記事に対して寄せられた「ただしイケメンに限る」という反応に対して書かれた記事※ただしイケメンにかぎらないも合わせてどうぞ。

来年からナンパを始めようと思っている全ての人たちへ
クラトロさんがナンパを一般的なものにしようとしているのに対して、しんじ君はそうではないのだということを感じさせる記事。特に今、自分自身を社会的弱者と考え、その劣等感からナンパを始めようとしている人には読んでもらいたい。

ナンパはスポーツなのか
クラトロさんがブログタイトル「ナンパはスポーツ」に自ら疑問を突きつけた素晴らしい記事。彼自身がいかに考え、いかに耐えた上でナンパを楽しんでいるかがよく分かる。ナンパには近道も才能もなく、ただ実践して、考えることを繰り返すしかないのだということを感じさせられ、勇気づけられる。

あなたをナンパに駆り立てる3つの要素
“インターネットとナンパの相性は非常に悪い。なぜならインターネットとオナニーの相性が最高すぎるからだ。”
これは意外と大切なことだ。

宮台真司 愛の授業 2012
様々なナンパ師がいて、様々なナンパビジネスがあって、あまり良いとはいえないナンパのイメージがある。
「日本のナンパを変えよう。」
しんじ君と二人でこう話していたことがあった。それから一年ほど経って、二人で社会学者の宮台真司さんと新宿ロフトプラスワンで講演をする機会を頂いた。ナンパとは何かということについて彼と話し続けたことの結論を出すことが出来た良い機会だったと思う。そのときに彼が考えていたこと。
そのとき、僕が書いたものも参考までに。土曜日の宮台氏とのナンパのトークイベントのことナンパのトークイベントに向けて。印象深い夜のこと。

誘惑論 ナンパ技術の古今東西を探る
“正直に言うと、この本があれば少なくともノウハウ部分に関しては俺のブログなんて全く読む必要はない。書かれていないのはセルフ・コントロールに関することぐらいだろうか。けれども自分のブログの存在危機に瀕しながらも、この本だけは紹介せずに済ますわけにはいかない。それぐらい本書の完成度は高いのだ。”
この本はナンパの教科書だ。ちょっと難しめに書いてあるので、ナンパに興味があって本好きの方にはオススメ。
文学的ナンパの教科書 『誘惑論・実践篇』こちらは参考までに。僕が書いたものです。

 

ナンパ師とは

初めてナンパをしようと思い立ったとき、ナンパ師たちは何を考えていたのか、そしてどういう結果を得たのか、そのことについて知ることは重要だ。なんとなく始めてしまうと結局何も出来ないまま終わってしまうことになってしまうことが多い。

ナンパに勤しむ私という人間
本人は趣味ナンパ師と書いているけれども、これほどナンパというものに情熱を持っている人はなかなかいないと思う。ナンパ師というと、街の中ですぐにセックスしそうな女の子を見つけて、すぐにセックスをするというイメージがあったが、コミュニケーションのプロセスに重きを置くナンパ師がネット上に増えてきたと思う。クラトロさんもそのタイプだ。彼は女の子にいかにアプローチして、いかに思いついたことを効果的に話すかということに重きを置いている。もちろん成果もあげているが、それよりも自分自身の行動を重視しているように見える。彼がこのとき趣味ナンパ師と自身のことを書いたのは、そうした即系狙いのナンパ師と自身との違いをはっきりと意識していたからだと思う。今や彼はメディアにまで露出し、彼自身が体現するナンパ師像を世間に伝えている。

ナンパ師には忘れられないナンパがある
クラトロさんの初めて成功したナンパ。果たしてナンパしてセックスが出来るのだろうかと誰もがナンパをし始めたときには疑問を抱く。そして、成功したときは女の子はなぜセックスをしたのだろうかと疑問を抱く。ナンパは知らなかったことを教えてもくれるし、さらに分からないことを増やしてもくれる。

ヒマだから俺の初体験の時の話でも書くか
“正直にお金の持ち合わせがあまりないことを告白したら奢ってもらえることになった。”
しんじ君の常套手段だ。僕が初めて会ったときもそうだった。彼ともう一人ナンパをしている人と三人で女の子三人と飲みに行くことになった。その子たちが行く予定だった場所に行くと、そこは西麻布の高そうなバーだった。その日も彼は正直にお金の持ち合わせがないことを初対面の僕に言ってきて、なぜか彼が払うはずの女の子の飲み代も含めて僕が出すことになった。それをさらっと人にさせてしまうのが彼の凄さだと思う。
この記事は彼の初体験、初ナンパの話。

 

声のかけ方について

爽やかに、しつこく、紳士的に。しかし笑顔で。
声をかけるときに考えるべきことについて、女の子からの予測される反応を的確に捉えた上で書かれている。

ナンパにおける女の子への声のかけ方
声のかけ方について、丁寧に書かれている。

あなたが美人だったので声をかけました。俺とセックスをしましょう。
タイトルのようなことは言ってはいけないという当たり前のことが書かれているが、ここに書かれていることは肝に銘じておかなければいけない。ナンパは当たり前のことを丁寧に積み重ねていくことで上手くいく。安易な方法などはないのだということを改めて感じさせてくれる記事。因みに僕は「声をかけた理由は…どうしてもセックスがしてみたいと思って…」などと言ったことは何度もあるけど、意外と反応は良かった。正直に、誠実に言えば、人は意外と聞いてくれるものだ。

初心者向けナンパ声かけ完全ガイダンス
このイメージトレーニングをバカバカしいと思うだろうか。僕は思わない。しんじ君はときどき躁状態のときがあるけれども、この記事はそのときに書かれたものなのだろう。内容も素晴らしいが、読んでいるとテンションが上がってくるのでナンパをしに行く前や、ナンパで上手くいかなくて落ち込んでいるときに読むのにオススメ。

 

出会いの風景

ぬくまちくん、とささこ、
今日のぬくまちくん
友人の女の子が書いた物語(?)。のんびりとした文体で描かれるナンパ師ぬくまちくんと、ナンパされた女の子ささこのやりとりはリアルだ。見知らぬ男女の中でのやりとりにはどのようなものが存在し得るのか、そうしたことを考えるヒントになる。

 

会うまで

女の子とメールする際に気をつけておくべき3つのこと
結論は“あまり気にするな”ということだが、僕もそう思う。ナンパをして手に入れた一つの連絡先を大切にする気持ちはよく分かるが、女の子は出会ったときに大抵その先をどうするかは決めていると思う。見知らぬ男性と連絡先を交換して次に会うのを楽しみにすることもあれば、寂しくなったときにふと思い出すこともあれば、いなくなって欲しいけど断れないから連絡先を交換することもあるだろう。メールをどうするかよりも、メールが返って来なかったら、また新しい連絡先を手に入れるべく外に出ることだ。

 

デートについて

「とりあえず」と「ついでだから」の効用について
下らない記事のようでいて、かなり使えるもの。ナンパをしていると誰だって展開させていくことが出来なくて困ることがある。それに対しての解決策である。

ナンパ師が日常的に使っている説得術
この記事は読まなくてもいいけど、世間的な受けは良いと思う。チャルディーニの『影響力の武器』という社会学の有名な本がある。人がどういうときに決断をしてしまうのかということが書かれてあるが、それを知ったところで使えない人は使えないし、使える人は使えるのだ。こういった知識を得ることのメリットは、自分が騙されなくなることであって、その素養がない人間は騙す側にまわれるようにはならないと個人的に思う。それよりも使えるのが以下の記事にあるような知識だ。

「からだ」と「ことば」のレッスンーー秀逸すぎるナンパの教科書
ナンパは知識で出来るものではない。自分の肉体を使ってやるものだ。しんじ君と僕とで一人の男の子にナンパを教えたとき、発声の訓練をしたこともあった。自分の肉体を使って、それによって異性に注意を向けさせ、魅了すること。そのようにナンパを考える方が現実的だろう。この本はオススメ。

こんなお洒落な所でお酒飲んだの初めて
周りにはまだ同い年の男性しかいない女子大生に対して、彼女のニーズを満たす大人のデート感を出したクラトロさんの戦略が見事にはまったケース。目的を達成するために相手を調べて、対応するのはまさにナンパ師の王道パターンだと思う。ただ、それが良いと思うのはナンパし始めの頃だけというのはクラトロさんも同じで、今は好き放題にやっている様子。ナンパ師の初期の段階では、とにかく誰かを落としたいのだと思う。

“付き合わないとセックスしない”が持論の女性を抱いた夜
「付き合わないとセックスしない」と言う女性は多い。クラトロさんがこの難問に対して出した答えは“付き合っているっぽい感じを出す”ことだった。因みに僕はそういう女性と当たったときは「付き合おう」と伝えることが多かった。目的のためには手段を選ばないのだ。

“カップルっぽいゲーム”2012年これ流行る多分
クラトロさんの本領はそれっぽい雰囲気を作り上げるところなのかもしれない。このパターンはかなり有効なので、この状況のようにどうしていいか分からないときのネタとして持っておきたい。

女性はセックスして初めて男性に好意を抱く
ナンパを始めるにあたっては必要ないかなと思ったけど、「好意を抱かせたい相手なら、這いつくばってでも抱くしかない」「誠意をアピールする=ギラつかないは間違ってる」というクラトロさんが自戒を込めて伝えているメッセージはナンパを始めるにあたっても胸に留めておく必要があると思う。ナンパの成功を阻むのは自分自身の言い訳だ。ナンパとはその障害を乗り越えること、目の前の目的から逃げようとする自分との戦いでもある。

『トラウマと身体』トラウマセラピーを使ったナンパ講習

 『トラウマと身体』はハコミセラピーという一つの心理療法の手法が書かれた本である。過去に経験した出来事によって、人は無意識に習慣的な動きをとってしまう。人前に出るとオドオドしてしまったり、反対に虚勢を張ってしまったり、本人は他人から言われなければ気づかない行動というものが、一人の人間の日常の中には無数にある。一人の人間とは、その習慣的な行動の集まりだ。そして、その習慣的な行動によって、満足のいく幸せな結果を得ている人もいれば、毎日を不満を抱きながら過ごしている人もいる。

 伝統的な心理療法では、言葉を扱いながらクライアントに接する。クライアントにどういう言葉をかけるか、クライアントの語りに対してどのような返答をしていくかということに主眼が置かれている。そうしてクライアントは、自らを語ることによって、そして自らの語りに対して他人の語りが入り込むことによって、自分自身に対するイメージを変えていく。その結果、過去の嫌な出来事が気にならなくなったり、受け容れられるようになったりする。

 ハコミセラピーは、言葉と同時に身体にも訴えかける。例えば虐待を受けたことがあるクライアントは、人前に出ると前屈みになったり、人に触れられることを恐れて他人との物理的な距離をたくさんとるかもしれない。本人はそういった自分の動きを意識したことはなく、自然とそうなってしまうのだ。その動きをセラピストは指摘して、動きをとったときの心理的なイメージを聞く。そうすると過去の出来事を思い出したりする。それを自覚してもらって、違う動きの練習をしてもらう。例えば、前屈みの人には、身体の力を抜いて胸を開けた姿勢で座ってもらう。そうすると、その人は今までとは違う心理的な感覚を持つ。そうして、自分自身の動きと心理状態との関連性を自覚してもらうことで、過去の出来事がもとになっている習慣的な動きから脱していく手伝いをしていく。

 この本を出版した日本ハコミ研究所はまさかそれがナンパ講習に使われているとは思っていないだろうけれども、僕はこの心理状態と動きの関連性に焦点を当ててナンパの講習をすることが多い。

 動きにその人が表れる。人はそのときに他人に与えている印象以上のものにはなれない。だから誰もが見た感じの通りのナンパをする。今まで、色々なナンパをする人を見たけれども、ナンパのときに突然輝き出した人はいないし、反対に突然色褪せた人もいない。誰もがその場でパッと見た感じ以上の印象を意図的に作り上げることは出来ないのだ。だから僕は恋愛のテクニックというものを信じていない。本人が自身の変化を経ずに、テクニックを身につけることによって、他人に対して魅力的に映るようになることなどないのだ。

 反対に、心理状態が変化すれば、その人の印象は突然変化する。僕はその変化を促すために、なぜナンパをしたいのかを聞く。「女の子が好きだから」「簡単にセックス出来るようになれたら嬉しいから」そう答える人は多い。それでは無理だ。僕が女の子だったら聞いてて吐き気がするし、そんな人間が魅力的には感じられない。本当は本人の切なる願いがあるはずなのだ。特別な理由を見出さずに僕のところへ来たクライアントが、「他人と話すことが怖いからそれをどうにかして克服したい」とか「死ぬまでに色んな女性のことを知らないと後悔すると思ったから」とか、そう言ったときにその人の印象がガラリと変わる。どんな理由であろうと、自分自身のために必死で行動しようとすると印象が変わるのだ。そして、そうなることでようやく自分の心理状態に人は意識を向けることが出来るようになる。

 様々な人間関係におけるテクニックがあるが、それらは当人の行動の変化による心理状態の変化を促すという意味では有益だが、単純にそれをすれば他人に好印象を与えられるというものではない。だから、自分自身の心理状態に意識が向けられないまま、単純に上手く人を操れる方法を求めてテクニックを習得しようとすれば、いくら知識を得ても魅力的になることはない。大切なのは心理状態の変化だ。

 例えば、女の子の斜め前に出てから声をかけるように指示することがある。そのとき僕は、斜め前に出れば女の子が聞いてくれるから、斜め前に出るように言っているのではない。クライアントにとって斜め前に出ることは苦痛なのだ。彼は習慣的に女の子の少し斜め後ろから声をかけている。なぜなら、女の子に拒絶されることが怖いから、予め拒絶されても傷つかないような位置関係に無意識に立ってしまう。その習慣を破らせて、心理状態を変化させることが僕の狙いだ。クライアントは斜め前に恐る恐る立つ。そして、戻ってくるときは声をかける前よりも少し上半身が開いてオープンな印象になっている。だけど、本人はその状態の変化には気づき難いから、僕が指摘する。そして、今の心理状態を尋ねると、少し気持ちが軽い気がすると答える。こうして、習慣的な動きを変化させて、自分の心理状態の変化に気づくことによって、その心理状態の変化が定着する。もし動きとして、斜め前に立つことだけを覚えてしまっては、心理状態が変化することがない。だから、こうした対人関係での動作の上達には、常に自分の心理状態に意識が向けられているということが大切なのだ。

 また、イメージを使った催眠の誘導によって動きを変化させてもらうこともある。このときは動きの変化の指示は全く出さない。例えばこういう指示を出すことがある。「前に女の子が歩いていますよね…あの子、一人で寂しそうに歩いていて、心の扉が周囲に対して完全に閉じてしまっているような印象がある…そういう感じは分かりますね…そう、じゃああの女の子の心臓辺りに鍵穴があると思ってみて下さい。その鍵穴にカチカチと鍵を差し込んで、扉を開くように声をかけてみて下さい。そう、鍵穴を見つけて…鍵を丁寧に差し込んで…それだけをイメージして。」そう言われると声かけの仕方がとても丁寧になったり、相手に深く踏み込むようになったりする。それまで女の子に対して緊張してしまって、表情が硬くなって、後ろに身体を引いてしまっていた人が、相手の方に重心を向けて、表情が柔らかい状態で話しかけることが出来たりする。こうして、イメージによる心理状態の変化によって、動きの変化が訪れる。この場合は、声かけをし終わった人に僕は動きの変化を細かく描写して伝える。そうすると、動きの変化が定着する。

 ナンパ講習の目的は、こうした過去の出来事によって固定されてしまった心理状態、習慣的な動きに対する変化だ。ナンパをしている中で、自身の動きと心理状態の変化を感じられればそれを楽しいと感じ、変化出来る部分がなくなってくるとそれに飽きを感じる。だから僕はナンパ講習においては、ナンパが適切に治癒という形、楽しみを感じられるようにすることが大切だと思っている。また、ナンパにある程度習熟して治癒という状態を経て、惰性で行うようになれば麻薬になってしまう。慣れた行動によって、暇つぶしをするけれども、以前と同じようには楽しさは得られなくなってしまうが、慣れた行動によって安易に得られる刺激を求めてしまう状態だ。僕のクライアントの方は数ヶ月でナンパで成果が出せるようになったあと、サラッと辞めてしまう方が多い。それは僕自身のこうした考えを受け取って下さっているからだと思う。

 僕自身も街を歩いていても声をかけたくなることが殆どなくなった。ナンパを始めた頃や毎日やっていたときは、声をかけるのが楽しみで仕方がなかった。そのときは、声をかける相手は誰でも良かった。声をかけて、知らない人と話すこと自体が楽しみなのである。今、こうして講習をしながら、ナンパについて考えてみると、声をかけて、自分が変わっていくことを味わうのが楽しかったのだと思う。今は反対に、わざわざ知らない人と話す意味はないように感じている。そのこと自体はときどき寂しくも感じるけれども、ナンパをして、それから人にナンパを教えて、人間関係を考え続けた中での今の段階での結論なのかなと思って、それを受け止めている。

参考:心理療法とトラウマ――身体感覚を手がかりに考える