月別アーカイブ: 2012年12月

2012年のこと

 去年は渋谷で年越しをした。カウントダウンとかは僕には無縁である。一人だった。それは渋谷の明治通りと246が交わる交差点の歩道橋の上だった。周りのビルからは、飲食店にカウントダウンで集まっている人たちが騒いでいるのが見えた。それから道玄坂のフレッシュネスバーガーに行った。そこには店員以外誰もいなかった。外はカウントダウンをしていた大勢の人で大変なことになっているのに。周りにはたくさん人がいるのに、店の中には誰もいない、不思議な空間だった。今は実家の近く、三宮の東急ハンズ前のスターバックスにいる。街の中は比較的のんびりしている。渋谷のあの集団ヒステリーのような状態には、この街は未だなっていない。

性とナンパについて渋谷で考えた
(一年前に自分を振り返った記事)

 誰にも求められているわけではないけど、自分のために自分のことを少し振り返ってみようと思う。

【ナンパ】

 去年は、ナンパをするだけだった人間から、ナンパを教えたり、催眠術を教えたり、カウンセリングをしたりする人間に変わった、大きな変化のあった年だった。今年は、そのまま教え続けた。ますます、色々な人とセックスをするということからは遠ざかって行った。その中でも、新しい人とセックスをしたり、関係を持ったりしても、特に自分の中に何も変化が起きないということを感じた。女性というシステムがある。それを攻略したとは全く思わない。ただ、その女性という概念の世俗的な一つの形をとったものである一人の女性との付き合いの中で、あまりハッとさせられることはなくなってしまったように感じている。色々な人がそうしている現象を見つめさせて頂く中で様々な新しい発見があった。

 そうして、自分はナンパを教えながら、ナンパという概念と自分自身について考え続けたように思う。地味な一年である。ただ、その中で、様々な人たちの女性を巡る様々な人生を垣間見る機会を与えて頂いた。自分がどう生きるべきか、はっきりとした答えはないが、周りの人たちと同様に、一人の生きている人間の肉体を与えられた中でどう生きるのか、そのことを人並み以上に考えさせてもらう機会を与えて頂いているということを実感している。

 昨日、カサノヴァについて書かれた本を読んでいた。そこには彼の晩年の姿があった。様々な口説きをこなしてきた彼だが、その口説きの場面では美しいと思われた所作や発言も、全て老いぼれの滑稽な姿と見られ、その辺の人たちに嘲笑されていたのである。

「コーヒーやミルク、それに毎日彼が要求したマカロニ料理のことで、彼が苦情を言わない日は一日もなかった。料理人は彼にポレンタを出さなかったし、彼がわたしに会いに来るときも、厩番は下手な馭者しか彼に当てがわなかった……彼が飲むスープは、わざと熱すぎるようにしてあり、給仕はいつも飲物を持たせた……彼がドイツ語で喋っても誰もわからなかった。彼が腹をたてると、みんなが笑った。自作のフランス語の詩を見せると、みんなはこれも笑った。そして、身ぶり手ぶりを交えてイタリア語の詩を朗読すると、これもみんなに笑われた。六十年前に有名な舞踏教師マルセルに教えられたお辞儀をしても部屋に入れば笑われ、舞踏会であれほど得意にしていた複雑なメヌエットのステップを踏んでも笑われた。白い羽根帽子と金糸縫取りの絹の服に、黒ビロードのチョッキと絹靴下、それに模造ダイア入りの尾錠付きの靴下止めといういでたちで盛装すると、これもやはり笑われた…」

 カサノヴァの晩年の姿を見ていた人が書いたものである。恐らく六十歳前後の姿だろう。自分にとってはまだまだ先の話だけど、自分の人生がこうしたところに向かっているのだろうかとふと思うことがある。それは街を歩く様々な年代の男性を見ているときにふと思うことがある。どうなるとしても、悔いが残らないように自分の時間を使いたいし、周りと自分自身を出来る限り繊細に見つめ続けていきたい。

【カウンセリング】

 カウンセリングの依頼をたくさん頂くようにもなった。カウンセリングのことは基本的にはブログやツイッターには書かないようにしているが、今回は一年の総括だけ。色々な方が来て下さる。大学生から、五十代の方まで。職業も様々だ。フリーターの方もいれば、自分で会社をやられている方、特殊な仕事をされている方もいる。基本的には話を聞くオーソドックスなカウンセリングだけど、必要に応じて外で気功を一緒にしたり、軽くナンパをしたりとか、僕が知っている使えるものは全て使うようにしている。カウンセリングを受けに来られている、と思うより、僕に会いに来て下さっているのだと思うようにしている。その中で僕が出来ることはなんでもしたいと思っている。そう思えば、自然とその人のことを知らなければいけないから、必然的にカウンセリングの流れになる。

 やはり、僕にとってはこの時間が一番楽しい。目的の決まっていない、人間という肉体を持っている人たち。どこに向かうのかは皆それぞれが違う。そのことをじっくりと考える時間は、自分自身や他人への愛があって、ゆったりとした時間だ。そういう時間を作るために、自分自身を整えたり、鍛えたり、新しいことを身につけたりする。今の自分にとっては、そうしていくことが生きることになっている。天職かどうかは分からないけど、この仕事が嫌だと思ったことは一度もない。

【話すこと】

 社会学者の宮台真司さんと「愛の授業」というトークイベントをさせて頂いた。國學院大学でナンパの講義もさせて頂いた。カウンセラーというのは、ただの聞く人ではない。話すことにおいても優れた技術を持つべきだと思っている。それはただベラベラと喋る人というのではなくて、周りの空気を感じ取りながら、その空気を掴める人という意味で。ナンパは一人を相手にする。大勢を相手にすることには、また別の難しさがある。その話す技術を磨く場所を幸いなことに与えて頂いた。

 また、宮台さんの話し手、聞き手としての巧みさを吸収すること、一人の人間としてどう生きていくかお手本にしたいと思っていた人に自分の疑問をぶつけることをしたいと思っていた。ナンパや男女関係の出会いについて日本で一番思慮深い考察を続けて来られている方だと思っていたので、「愛の授業」は今までの自分のやってきたことを全てぶつけ切れたものだった。

【終わり】

 去年は、こうして外にいるときに、暗くて生暖かい液体の中に浸されているように思った。今はさらっとした、明るく、透明感のある液体の中に浸されているように感じる。そして、他人の肉体的な存在の温かさや感情が、水の揺れによって自分の方へと伝わってくる。ゆらゆらと揺れている水の中に自分がぽんと置かれている。それを心地良く感じている。段々と自分の周りが見えるようになってきたのかもしれない。去年の自分を思い返すと、見えないものを必死に触って、形を捉えようとしているようだった。今はぼんやりと、落ち着いて見ている。少しは成長したのかもしれない。

 来年は、今年にこうして溜め込んだ色々なものを、もう少し現実に作用を及ぼすものに昇華させていきたいと思っている。

國學院大学でのナンパの講義/鏡に映る自分

教室風景

國學院大学の藤野先生の催眠とコミュニケーションの授業で、ナンパの講義をさせて頂いた。いつも「ナンパの手帖」というUSTを一緒にやっているしんじ君小野さんと一緒に。

二人は信頼できる。よく喧嘩もするけど、次第に三人で上手く話が出来るようになってきている気がする。誰かが上手く話せないときは誰かがカバーするという関係だ。特に今回、しんじ君と最後に二人で壇上で話していたときは一体感があった気がした。彼とは月に一回ほど会って、いつも長い時間、互いが考えていることを話し合う。息が合ってきた気がする。小野さんは軌道の分からないミサイルのようなものだ。どこに向かっていくか分からない。今回も分からなかった。ぶっぱなしである。そのぶっぱなしの軌道をしんじ君と僕とが確保するという感じがした。何にせよ、三人でこうして話が出来るというのはいつも楽しい。

藤野さんはこの講義の危険性を考慮して、この日は出席してもしなくても単位に影響がでないようにして下さった。その代わり、セックスなどの話が出ても文句を言わないことを生徒たちに事前に告知しておいて下さった。つまり、準備は万全ということである。五百人の大教室で僕らは好き勝手に出来るというわけだ。当日はほぼ満席の上、立ち見もあった。他の大学や社会人の方も見に来て下さった。

講義の様子はtogetterにまとめて頂いたので、僕自身が思ったことをブログに残しておこうと思う。

僕はパニック障害だった。大学は中退している。主な理由は講義に出席出来なかったからだと思っている。座っていることが出来なかった。講義をしている人が基本的に話をするつもりがないことが伝わってくる。そういうのを見ていると苛々して、教室から出て行ってしまう。そのとき、自律神経がおかしくなって、寒くても汗が出て来てしまう。多分、僕は大学に通う意味を見出せていなかった。意味を見出せている人たちはちゃんと出席出来るのだろう。僕にはそれが出来なかった。

あの日の自分のような人間でも飽きずに聞き続けられる授業ってどんなのだろうと、今回の話を頂いたときに思った。そういうものをしてみたかった。

五百人の教室は思ったよりも広かった。そして、室内は蛍光灯でとても明るい。前に座っている人たちはとても熱心に聞こうとしている。当然のことだが、後ろに行けば行くほど関心の度合いは低くなっていく。僕がやりたいことをやるためには、前の人ではなく、後ろの人をカバーしなければいけない。

身体の中を空っぽにして、五百人の前に立ってみた。お腹が痛くなる。生徒たちも緊張していたのだろうか。或いは、ナンパ師というものに対するネガティブな感情だろうか。何かは分からないが、その緊張が僕の身体に入ってきて、ぐっとみぞおちが緊張したのが分かった。辛いものを食べたりしたときとは全く違う腹痛で、はじめは上手く呼吸が出来なかった。

人間関係で緊張することはあまりなくなったと思っていた。ナンパで緊張することはない。催眠術をかけるときもしない。カウンセリングもしない。大勢の前で講演をするときもしない。それは多分、その人たちが場に参加しようとしてくれているから、期待してくれているからなのだろう。教室は見物をしようという感じ、冷たい無関心さで満たされていたような気がした。これでは見る側、見られる側の関係が固定されてしまっている。

講義が始まった。壇上で紹介をして頂いた。壇上にいる僕らと、椅子に座っている生徒たち。このままでは会場とのラポール形成は難しいと感じ、照明を暗くしに一番後ろにある照明の操作盤まで行った。壇上と前数列だけ照明をつけて、あとは消した。人は少し暗いところにいると自然とトランスに入ってしまう。関心のない生徒たちが座る場所の照明を暗くすることで、彼らを少しトランスに入れることが出来る。

後ろから教室を見ると、生徒たちの後ろ姿が見える。僕は生徒たちから見えていない。見えていないところからマイクで話すことで、彼らに緊張感を与えることが出来る。生徒たちのうち、抵抗を示した人に話しかけに行き、ネグったりしながら、全体に緊張を与える。これが功を奏したのか、この講義での途中退席は数名に留まった。彼らがどういうつもりで席を立たなかったのかは分からないが、彼らの多くは人を物として扱うナンパの話、彼らのセックスを否定するようなセックスの話などに腹を立てつつも最後まで座っていた。

こういった話は理解する人は理解して、楽しんで聞いてくれる。重要なのは聞こうとしない人間だ。彼らを嫌悪感を抱かせても座らせ続けること。そして、抱くなら抱けるだけの嫌悪感を抱かせること。そうすることで、彼らは僕らの話を考えざるを得なくなってしまう。ある種の呪いのようなものだ。

別のことをして聞いていないふりをしている人もいた。睨みつけている人もいた。それは構わない。声というものは飛んでもない影響力を持っている。目を閉じれば、目の前で起こっていることは見えなくなる。だけど、耳を塞ぐことは容易には出来ない。聞いていないふりをしていても、単純な言葉であればあるほど、その言葉にイメージを込めて発声すればするほど、人は聞きながら想像してしまう。それもセックスや人間関係の話だから、すぐに自分のことと結びつけてしまい、自分自身のことを考えざるをえなくなってしまう。

生徒たちに対して「聞いているようで全く聞いていない。これはディスコミュニケーションだ。」と言ったが、実は違う。耳を完全に塞ぎ切ってしまうか、この教室から出ない限り、僕たちの言葉は良くも悪くも彼らに突き刺さっていく。ツイートでは肯定的な意見も、否定的な意見も頂いた。どちらにしても、聞いていたことへの表明だ。また、教室を出る際に講義の内容について嘲笑していた生徒もいたが、そういった嘲笑は自身の怒りから湧いて出てくるものであり、彼らには深く何かが突き刺さってしまっている。

また一人の生徒を選んで、その生徒に色々なことを言う機会がたくさんあった。あのとき、僕自身はその生徒以外の残りの人たちを誘導するつもりでやっている。同じ生徒という立場の他人が僕から何かを言われ続けているのを見て、聞いていると、その言葉に誘導される。人は他人に向けられた話ほど、安心して聞いてしまうからだ。心理的な抵抗を無意識に失ってしまっている状態が作られる。そうして、知らないうちに誘導されていることが多い。

大きな場所での大勢への影響力とは何だろうか。しかも、お金を払って積極的に聞きに来ている人たちではないという意味で、多少消極的な聴衆に向けて何かを語るというのはどういうことだろうか。そういったことを僕自身が考えて、実験出来る場だった。他にも色々な試みをさせて頂けて、楽しかった。

反応としてもらう肯定も否定も無関心も含めて、今の自分自身をその五百人を鏡にして映したようだった。
ナンパ…こんなことは肯定も否定もされることは分かり切っている。分かった上で極端なものを目の前の人たちの心の中に流し込む。僕自身は彼らの反応をよく観察して、それを自分の身体に流し込んで、自分の身体がどれほどのものに耐えられるのかを試している。そうすると、僕自身がより強く自分自身を肯定したり、否定する。そして、自分を知る。ナンパ、異性との関係、欲望の昇華というテーマは、人々の欲望を刺激して、聴衆の希望、切望、嫌悪、様々なものを引き出していく。その引き出されたものを、責任を持って、自分自身の身体の中に通していくこと。それが他人を鏡とすることだ。

そう思った講義だった。これでまた、この中で見出した自分自身を解体して、新しく踏み出せるようになった気がした。
こういった場で、こういった立場で話すことでしか得られない経験だった。

どんな形であれ、聞いて下さった方たちに感謝している。

穏やかな無関心/ドトール 神南一丁目店

ドトール

僕はいつもここでカウンセリングをしている。普通のカウンセリング、ナンパ講習の前後のカウンセリング、催眠術を教えているときもある。奥には大きな噴水が中央にあるテーブルがあって、その周りを椅子が囲っている。この噴水の周りの人々は常連であることが多い。僕もそう思われているかもしれないが、大体同じ人たちが座っている。皆、それぞれに顔を知っている。だけど、言葉を交わすことはない。

勉強をしている大学生たち、ブツブツ何かを言いながらスポーツ新聞を読んでいるおじさん、真面目そうにいつも本を読んでいるおばさん、近所のアパレルで働いていそうな女の子、アイスコーヒーに十個くらいのコーヒーフレッシュを入れる女性。そして、夜には怪しい中年のカップルが来て、男性が女性の服の下にカメラを入れて撮影していることもある。

彼らは、というより、僕たちは、お互いに干渉し合わない。互いの日常の中に互いが存在していることは知っている。だけど、重なり合うことはないだろう。ナンパとは程遠い世界だ。不躾に話しかけるなんてことはしない。穏やかな無関心…それがこのドトールの良いところだ。

店員さんもそうだ。
ドトールの店員は客に対する関心がない。関心がないというと否定的に聞こえるかもしれないから、穏やかな無関心があると言った方がいいかもしれない。(もしかしたら裏で「また怪しい催眠術野郎が来た。」などと言われているかもしれないけど…。)他のドトールではその無関心が刺々しさになることもある。マニュアルに沿って接客する。それが開き直りになり、労働環境、そして自身の人生への不満によって、マニュアルに沿ってさえいれば客に何をしてもいいというようなことになりかねない。
赤坂四丁目店などはその好例だろう。あの店舗では、店員たちがほぼ奇声に近いような「いらっしゃいませ!」「ミラノサンドをお待ちのお客様!」などと言った文句が飛び交っている。一度、足の悪い老婆がミラノサンドを頼み、席で待っているところに、いつもの「ミラノサンドをお待ちのお客様!」が始まった。老婆は足が悪いためになかなか立ち上がることが出来ない。そして、彼女がカウンターにミラノサンドをとりにいくまでに、何度この「ミラノサンドをお待ちのお客様!」が叫ばれたことか。ここはドストエフスキーの世界かと思った。
神南一丁目店ではそういうことはあり得ない。店員さんたちは無関心を示しながらも、最低限の優しさを示してくれる。この最低限の優しさというのが重要だ。最低限であるところがいい。少しでもサービスに気を張ったりされてしまうと、客である僕も気を遣ってしまい、200円のホットティーで三時間も居座るということが出来なくなってしまう。決して「今日は寒いですね。」などと話しかけられたくはない。そんなちょっとした一言だけで壊れてしまう繊細な関係がこのドトールでは築かれている。

スカウトマンの時からこのドトールを愛用している。使い始めてからもう三年ほどになるかもしれない。
渋谷では、このドトールか、名曲喫茶ライオンに行く。ライオンは一人の世界に没入したいときに行く。このドトールでは、色々な人が生活をしていて、自分はその中の一人なのだということを知れる。女の子に声をかけ続けて成果が出なかったとき、自己嫌悪に陥ることがある。そういうときにこの場所に来ると、噴水の周りにはいつもと同じ人たちがいて、なんだかほっとする。反対に、成果を出したときは喜びで傲慢になってしまうこともある。そういうときに来ると、自分はただの一人の人間でしかなかったのだということを自覚させてくれる。いつもと変わらぬ人たちが少し落ち込んでいる様子だったりするのを見ると、落ち込んでいるけどこの人は今日もここに来ているんだなと、ぼんやりと思ったりする。

噴水の水は中心の空洞から水がのぼっていき、上から溢れて、螺旋状になった段差を流れていく。その端から不規則に水が落ちていく。耳を澄ませば、周囲の話し声や流れている音楽の奥の方にこの水の音が聞こえる。中心の空洞をのぼっていく水泡を見つめながら、その水の音を聞く。そうすると、この汚れない、いつでもニュートラルな噴水が持っている霊性のようなものが身体の中を流れていくのを感じる。外に出れば、様々な人たちが欲望を丸出しにして歩いている。その欲望の流れが身体全体に行き渡ってしまったら、自分がダメになってしまう。身体がそうした欲望に巻き込まれて、疲れてしまったら、この噴水が浄化してくれる。(だけど、この噴水は結構汚れていて、ボランティアでいいから掃除することを申し出たいといつも思っている。)

カウンセリングはいつもこの噴水のテーブルでさせてもらっている。以前カウンセリングを受けて下さったクライアントの方がときどき座っていることもある。聞いてみると、やはりこの噴水を見ると落ち着くのだと言われる。多分、この噴水は何かあるのだと思う。

ふと思いついたので、大好きなドトールのことを書いてみた。

ナンパを教える仕事

僕はナンパを教える仕事をしてみた。世の中にこんな仕事があるということを知ったのは、多分二年ほど前だったと思う。有名なナンパ塾のナンパ教材つきのナンパ講習に申し込みをしたときだ。理由はナンパの情報商材というものを読んでみたかった。確か教材と講習とを合わせて五万円だった。その当時、僕は既にスカウトマンをしていて、誰かにナンパを教えてもらう必要などなかったが、ナンパが上手いってどういうことなのかということに興味があった。五万円くらいなら騙されてもいいかと思って購入した。

情報商材の内容は全く参考にならなかったが、ナンパを全くしたことがない童貞のような人の夢を膨らませるのには十分な内容だったと記憶している。ナンパで話す内容を事細かに書いてある。例えば、「彼氏いるんで。」には「ちょっと話すだけでいいよ。彼氏がいるからって他の男を見ないなんて勿体ないよ。」みたいな返しをするとか。使い道のなさそうな、色々なセンスのないグダ崩しが書いてあった。必要ないから人にあげてしまったので、そのまま引用することは出来ないけどそんな感じだった。きっとそれを見て、童貞の人たちはそのままの声かけをするのだろうと思う。

ちなみに、講習にはそれから一年後に申し込んだが返事はなかった。時間が経ってしまったから、僕の受講する権利は無効になってしまったのかもしれない。一年前に受講を申し込まなかったのはなぜだろうと考える。もしかしたら怖かったのかもしれない。講習のルールとして、何分かに一回は必ず声をかけなければいけないだとか、色々なものがあった。それを読んで、色んなことが強制されるのが嫌だったのかもしれない。

ナンパの教材を手に入れてから二年後くらいに僕はナンパ講習を始めた。講習を始めた経緯については、下の記事に書いてあるが、カウンセリングのクライアントの方に教えさせてもらったのがきっかけだった。
渋谷でナンパを教え続けて思うこと

この当時、僕もナンパをよくしていた。でも、こんなことはやめたいとも思っていた。また、これは一体なんなのだろうと思っていた。そう思いながら、ナンパをすることで、考え続けていた。それが、人にナンパを教えさせてもらうことで、一気に理解が進み始めた。自分がやっているだけでは理解出来なかった世界が広がった。ナンパ講習で、クライアントの方に「なぜナンパをしたいのか」を聞く。色々な理由がある。そして、声をかけている姿を見せてもらって、必要な心理的なテクニックを伝えさせてもらったり、緊張を解くためにカウンセリングのようなことをさせてもらったり、ときには催眠療法をさせてもらったりもする。今まで催眠療法士でカウンセラーである人間がナンパを教えたことはあったのだろうか。前例については聞いたことがないが、このプロセスはもし自分がナンパが出来ないときにしてもらったら良かっただろうことを想像して作っていった。

結果は成功だったのだろうか。僕には分からない。巷のナンパ講習のサイトでは、誰でもナンパで成果を上げられるようになるというようなことが書かれてある。僕のはそうではなかった。そんなものが存在するだろうかと、教え続けていて思う。ビジネス上、そう言わなければお客さんが集まらないからそう言っているようにしか思えない。

外に出れば出会った女の子とセックスしたり、電話番号は楽に聞けるような凄腕のナンパ師になる人もいた。反対に全く腕が上がらない人もいた。というのも、こういう人は大抵外に出て声をかけられない場合が多いように思う。教わっても、やらなければ結局腕は上がらない。反対に、教わらなくてもやり続ければ成果は上がるかもしれない。その人たちに毎日声をかけることを僕は強制出来ない。一時は、コミュニティを作って、声かけをし易い環境を作らなければいけないのかと思ったが、結果的にはツイッターで受講して下さった方たちが仲良くなって、合流などされるようになった。そうされている方たちは成果を上げられているような気がする。

或いは、僕はもしかしたら憎まれているかもしれない。教えさせてもらったけど、成果が出なかった人たちにはそう思われても仕方がないとも思う。この仕事はそうなることを覚悟してしなければいけない。その中には僕の失敗もあっただろうし、その人の状態もあると思う。誰にも教えられるわけではないということを、僕は正直に告白しなければいけない。
僕がどうやっても声をかけさせられなかった人もいたし、僕が伝えた指示を実行出来ずに先に進まなかった人もいた。指示は「女の子にすいませんと言ってから、頭の中に思い浮かんだことだけを言って下さい。浮かばなければ何も言わなくてもいいです。」という感じのものだったりする。怖くなって、どうしても用意した文句を言ってしまう。その恐怖心を僕は取り去ってあげることが出来なかった。
そういう講習のあとは僕もクタクタというか、目の下にはクマが出来て、もう誰とも話したくなくなった。友人と会っても、相手の目を見ることが出来なくなっていて、目を合わしたときには目の下がピクピクと痙攣してしまっていた。上手くいかないときほど自分を消耗してしまうようだった。自分のカウンセリングの未熟さゆえ、クライアントの心情を把握し切れていなかったように思う。

そうかと思うと、ナンパは結局出来なかったけど、別の出会いで彼女が出来たという連絡を頂いたりもした。そのときは、そういうものなんだなと思った。その人は別にナンパが出来ることを望んでいなかったのかもしれない。ただ女の子と仲良くなりたかった。ナンパはそういうことが出来るようになるための劇薬のようなものだ。僕と四時間ナンパをしたことが他の場面でのコミュニケーションに役に立たせてもらえたのなら嬉しいなと思うようになった。

大切な彼女がいて、ナンパには全く興味がないけど、仕事に活かすために一度やってみたいという人もたくさん来てくれた。その人たちは積極的に技術を吸収していこうとしてくれる。僕としては気楽だったが、その反面、何か役に立つことを伝えられるだろうかと気を張らなければいけない部分もあった。どうにかして童貞を卒業したいと言うが頑なに動かない男の子とは違って、やって下さいと伝えたことをすぐに実行していって、ナンパのスキルを身につけていってくれる。こんなことに気を配るのかとか、細かいことに驚きをもって楽しんでくれる。既に自分の仕事の中で技術を身につけている、コミュニケーションがある程度出来る人ほど、面白さを感じてくれる。会話のキャッチボールがやっと出来るか出来ないかという人はなかなか伸ばすことが難しい。ときに劇的に変化することもあるけど、そういう例ばかり挙げるのは不誠実だろう。実際はそういう好例ばかりではない。

でも、僕がしなければいけないのは後者の方だろう。そういう人にどうにかして上手くなる方法を伝えさせてもらわないといけないとも思う。

ナンパって何だろうって思うようになって、僕はナンパをしなくなった。これは出会いのプロセスだ。これがいくら上手くなったとしても、コミュニケーションが上手いとか、人間関係に満足しているとか、そういうことにはならない。寧ろ、依存症だと思うようになった。アルコール依存症の人の方が普通の人に比べて必死でお酒を探し出すように、ナンパ師は女性を探して手に入れる。いつでも交換可能なように、何人かの女の子を抱えておく。嫌になったら捨てればいい。捨てても数人はまだ手元に残っていて、その状態のまま、また新しい女の子を得られるようにしておけばいい。一人の人との関係性は一向に深まらず、或いは寂しさと向かい合うこともないまま、人生を過ごしていくことになり易い。皆がそうなのかは分からないが、僕は明らかにそうだった。

教えさせてもらうことで、自分がやっていることを外側から見ることが出来た。そして、あまりやらないようになった。

一人になってふと寂しくなったとき、いつもはキープしていた女の子に電話をしていたが、電話をしないようになった。そうすると向こうからも来なくなった。或いは来ても無視するようになった。一人の時間のとき、寂しさを感じながら、一人で喫茶店でぼんやりしたり、街の中を散歩するようになった。強烈に声をかけたくなって、かけることもあったし、気づいたらクラブに行って狂ったように声をかけていたこともあった。まさに依存症患者である。

寂しいって何だろうって思う。特に何も悪いことをしていないのに寂しくなってしまう。埋めても埋めても埋まらない。ナンパをし始めたときはこんなに寂しくなかった。だけど、簡単に女の子と知り合えるようになってから、その寂しさがどんどん強調されるようになってきた。ドラッグの依存症患者のようだった。寂しいときに、一人でじっとしてみる。誰かを探すように、外の人を見ない。ただじっと座る。そうすると、自分が一人なんだということを身体全身で感じることが出来る。あきらめなのか、よく分からないけど、なんだか気持ちがしっかりとする。そうすると、誰かに連絡をしようとしたり、新しい女の子を探そうとしなくなる。

僕は今はナンパをしていない。ナンパ講習は凄腕の現役ナンパ師みたいな人が、活き活きと教えなければいけないかもしれないと自分で思って不安になった。声をかけるのを見せて欲しいと言われても、前みたいに楽しそうに声をかけれない。どうやったら人が無視出来ないか、話を聞いてしまうかは分かっている。だけど、その先に繋げていこうという欲望が以前のように誰に対しても湧く状態ではない。そういうときは以前自分が書いたブログの記事を読んで、ナンパし続けていたときの気持ちを思い返していた。これを読むと一時的に気持ちがハイになって、ナンパに依存していたときの自分に戻れる。
「土曜日の宮台氏とのナンパのトークイベントのこと」

そうなってから、前よりも丁寧にナンパ講習前にカウンセリングをするようになった。なぜナンパをしたいのか。この人は一体何を求めているのか。ナンパ師のナンパ講習ではなく、カウンセラーのコミュニケーション講習みたいに変わっていった。実際にやってみて、そちらの方が無理も嘘もなくなってきた。

今は講習前に、ナンパのコミュニケーションのテクニックを身につけられる面白い側面も、依存症的になってしまう側面も、どちらも伝えながら「それでもやってみますか?」と聞く。或いは、その人の悩んでいるところをまず聞いて…結局「やっぱりナンパしなくていいです。」ということになることもある。
ナンパの自傷的な側面についてブログで書いてから、明らかに講習への申し込みが減った。僕のナンパ講習がナンパへの幻想が取り除かれたものになれたのかもしれない。申し込みが減った代わりに、申し込まれる方がきちんと技術を学ぼうとしてくれる方ばかりになった。
自傷行為とナンパについて/『自傷行為の理解と援助』松本俊彦著

今は、これは人生の中で、恋愛や異性、コミュニケーションについて問題意識を持たれた方が来てくれるものなんだなと思っている。結局、その人がそれからナンパ師にならないなら、ならないでいいし、なるのなら、なればいい。当たり前のことだけど。コミュニケーションが苦手な人を騙す詐欺みたいな講習をしたくないし、そういうことをしていると人から思われたくないと不必要に思ってこじれてしまった気がする。今はナンパの成果とかそういうものよりも、その人のコミュニケーションがナンパを通して上手くなったらいいなと、そういう心境でナンパを教えさせてもらっている。

珠玉のコミュニケーションテクニック集/『ホムンクルスの目』

効果的な褒め方とは…
相手の気分を操作するには…
ナンパで声をかけるときには左右どちらからかければいいのか…
相手がこちらに抵抗して断ろうとしているときにその抵抗を掻い潜る魔法の言葉とは…
食事中に相手との親密度を気づかれずに把握する方法とは…

この本にはそういう方法が百個近く書いてある。しかも、そこら辺のコミュニケーション本みたいな内容のないものではなく、ぎっしり詰まって730円である。

ナンパを教えている、催眠術を教えている、カウンセリングをしていると言うと、「こういうときどうすればいいの?」ということを聞かれることが多い。そういうことは自分で考えてこそ自分の成長がある。だから、僕がいくらテクニックを伝えても意味がない。だけど、聞かれて答えないのも意地悪だから答える。即効性があるかのように見えるテクニックというのは喜ばれる。だけど、そういうのは、考えない人には意味がないものだと思う。

果たして心理的なテクニックを知ることにはどういう意味があるのだろうと思う。

こうした心理的なテクニックとは、何かを上手くやるために学んでおくことではないと思う。とりあえず、自分がやりたいようにやってみる。やってみてからこういう本を読むと、自分がどうして上手くいったのか、どうして上手くいかなかったのが分かる。

反対に、こうしたテクニック集をやる前に読んで、この通りにやろうとすると、気持ちの悪いコミュニケーションのとり方になってしまう。例えば、相手と姿勢を同じにすると親近感を持たせることが出来るミラーリングというテクニックがある。それを信じて、目の前の人と同じ姿勢をとり続ければ、相手は変に思ったり、馬鹿にされたりしていると思うだろう。同調していれば、自然と姿勢は同じになってしまうものなのだ。それを知って、(確かにそういうことがあるな)と自分の今までの行動を思い返してみる。姿勢が同じになっていたときもあれば、相手と全く違うものになっていたときもあるという発見がある。じゃああのときは何故姿勢が同じになっていたのか、或いは全く違っていたのかと考えてみて、納得出来たときにミラーリングというテクニックが身につく。
ただ表面的に真似したのでは身に付くことはないし、滑稽な姿を相手に晒してしまうだけになってしまう。

テクニックを知らないまま、たくさんナンパしてもあまり意味がないのも事実だと思う。成長のスピードが遅くなったり、成長が止まったりし易い。たくさんこなして、こなしたことをテクニックに照らし合わせて反省することで、更に自分のコミュニケーションの精度が高まるし、自分が何をやって、どういう効果を他人に及ぼしているのかということを自覚することも出来る。

ナンパで試行錯誤してみて、行き詰まりを感じたときに読むと非常に参考になる本だと思う。