月別アーカイブ: 2012年8月

ナンパしたとき、何を話せばいいのか。或いは、発話することの効果について。

会話のマニュアル化にあたって、メモ書きみたいな形だけど書いてみた。
マインドマップ的読書感想文/【モテ】「ナンパ・最初の一声何てかける?」まとめ
上の記事を読ませて頂いて、皆、何を話せばいいのか悩むことが多いのだなと思った。実際、「最初の一声かけ目は何て言うんですか?」とか「何を話せばいいんですか?」とか、ナンパをしていると人に言うと必ず聞かれる質問である。いつも面倒だから、「何でもいいんじゃないですか。」と答える。だけど、本当は何でも良くなんかない。何でもいいのなら、何を話したってセックス出来るということになってしまう。そんなはずがない。言葉を発するということについて、この記事では考えてみたいと思う。ちょっと面倒な内容だし、今すぐ簡単に使えるといったものでもないので、面倒だと思ったらすぐに読むのをやめてもらった方がいいと思う。ナンパに近道なんてない。自分のやっていることを自分で考え続けることで、自分の言葉や動きを洗練させていくしかない。
この記事を読んで頂いてから、上の記事を読んで頂くと、その言葉を発することの意味が明確になってくると思う。

何のために言葉を発するのか、その言葉によって相手はどうなるのかを知ることが大事である。この記事の例がそのまま使えるわけではないが、自分の会話のテンプレートなどをより洗練させるために読んでもらえればいいかなと思う。ここでは、会話とは相手をトランス状態に導き、その状態の相手にメッセージを投げかけることであるということに焦点を絞って、言葉を発することの意味を考えていきたい。

・トランス状態に他人を導く必要がある理由
人は警戒しているとき、意識を外に向けて、身体を緊張させ、相手の言葉や動作によって投げかけてくるものを受け取らないようにしている。反対に、受け容れる体勢にあるとき、意識を自分の内側に向けて、身体は緩み、相手が言葉や動作によって投げかけてるメッセージをそのまま受け取ろうとする。(人によって程度の差はあるが、この状態がトランス状態。)どんなに良いことを言っても、相手が聞く体勢になければ、そのメッセージは全く通らない。反対に、どんなに陳腐なことであっても、相手が聞く体勢にあれば、つまりトランス状態にあれば、そのメッセージは簡単に通る。

・こちらに注意を向けさせる
例「こんにちは」
これが出来ていない人が意外と多い。何のために、相手に言葉を発するのか、その一言一言の意味を考えなければいけない。挨拶は相手に自分を示す行為である。それによって、自分を示すことが出来なければ、その意味はない。ナンパをする場合、言葉を一つのセットにしてしまいがちである。
「こんにちは、ちょっといいですか?すごく綺麗だなと思ったので。」と、全てがワンセットになってしまっている人が多い。あたかも、言葉を発すれば、その意味を相手は受け取ってくれると信じ込んでいるようである。そうではない。言葉を発するたび、その効果を期待して発しているのならば、実際にその効果があったのかどうかを常に確認していかなければいけない。これは挨拶に限らず、全ての行為に言えることである。

・状態の描写
例「暑いですね」「のんびり歩いていますね」
状態を描写されることによって、人はトランスに入る。例えば、以下の文章を読んでみて欲しい。
「今、あなたはこの文章を読んでいます。」
「今、あなたは座っています。(立っています。)」
こうして自分の状態を描写されると自分の内部に意識が向いてしまうことが分かると思う。

・感情の描写
例「そうですよね、いきなり話しかけられたら恥ずかしいですよね」「怒ってます?」
そのとき感じている感情を描写されることによって、人はトランスに入る。この文章を読んで、よく分からないと思っている人がいたら、下の文章を読んでもらいたい。
「この記事の文章は何かややこしい話だなと思っていますよね。」
このとき(そうそう…)と思った瞬間に、自分の内部に意識が向いていることに気がついてもらいたい。反対に(いや、別にそうは思わない)と思われた場合は相手を逆にトランスから覚ますことになることもある。何でも言えばいいものではない。状態の描写も感情の描写も、どちらにもリスクがある。

・声のトーンによって誘導する
まず、相手の声のトーンに自分の声のトーンを合わせる。声のトーンはその人の上半身の緊張状態によって変化する。緊張していれば高いし、リラックスしていれば低く落ち着いた声になる。そこに意識を向ければ相手の声を聞かなくても、相手の声のトーンを予想することは出来る。挨拶などでも、ここに意識を向けるだけで全く効果が違ってくる。いつもハイテンションで声をかけていれば、そのテンションに合っている人としか話せない。一人で歩いている女性はどういうテンションなのかということを考えなければいけないし、それ以上に目の前の人がどういうテンション、肉体的な緊張を持っているのかを観察しなければいけない。
大抵、声をかけられた瞬間、女の子は緊張する。相手の状態を観察して声のトーンを合わせれば、その緊張を最小限に留めることが出来る。例えば、もしテンションの高いナンパをしたいのならば、まず相手のトーンに合わせた後に、徐々にテンションを高めていけばいい。そうするだけで、拒絶される確率が格段に減る。

・意識を向けている部分が変わった瞬間を狙う
意識を向けている部分を変えられた瞬間、人は警戒が外れる。例えば、こちらが「そのバッグ…」と指を差して、相手がバッグに意識を向けた瞬間に警戒が外れる。ただし、こちらに意識を向け直した瞬間に警戒は元通りになるので、すぐにメッセージを伝えなければいけない。つまり、同じ外側に意識を向けているときでも、こちらに意識を向けているとき、相手はガードしている。反対に、別のものに意識を向けたとき、そのガードが解ける。そして、またこちらに意識を向ければガードが元通りになる。なかなか自分の内側に意識を向けようとしない相手に有効である。まずこちら以外のものに意識を向けてもらい、そこから発される会話によって内側に意識を持って行くというやり方として使うことが多い。
「そのバッグ…(相手が意識を向けているのを確認してから)かわいいね。そういう色好き?(これは相手の好き嫌い、感情に意識を向けさせてトランスに誘導するやり方)」

・混乱させる
疑問を投げかける。例えば、「いつもそういう歩き方してるの?」と聞かれたら、自問自答して混乱する。そして、自分の今の動作に意識を向けてしまう。今の状態を描写するのに似ているが、これは今の自分の状態によりフォーカスを当ててもらうやり方である。感情面にも同じように出来る。「なんで怒っているの?」など。

・質問はしない
質問は極力しない。質問をし続けると、尋問になってしまい、女の子は不審に思ったり、面倒くさくなって会話を打ち切ってしまう。こうして女の子との会話が終わってしまう人が多い。話のきっかけは観察によって探すことが大事。パッと女の子を見て、持っているもの、服装、表情、歩き方、姿勢、こちらの挨拶への身体的な反応、それらをぼんやりと感じることで、相手に話しかけるきっかけになるポイントが見つかってくる。
また、質問ばかりを先に考えてしまうことで、相手が答えてくれた質問の答えに反応出来ずに、また次の質問に移ってしまうことがある。何のために質問をしているのかを考えて欲しい。相手の情報を引き出すために質問をしているのではない。会話のきっかけや、相手の身体的な反応を見ることによって相手のこちらへの好意を確かめるために質問をしているだけである。だから、質問は一回で十分で、その一回の質問に対する答えに集中しなければいけない。

・相づちを打つ
例「彼氏いるんで。」
「そうですよね。彼氏はいますよね。それでね…」
相手が言った言葉に対して少し高いトーンで同じ言葉を返すことで、こちらが主導権を握る。カウンセリングでは傾聴というポピュラーなテクニックだが、それをナンパ用に、相手を巻き込むためにアグレッシブに使っている。特に、上記の例によって相手がこちらを拒絶する文句を言ってきた場合、こうして拒絶を認める。認めることによって、状態の描写にもなっている。そのまま少しスライドさせるように高いトーンで別の話を始める。まるで聞いていないかのようにして構わない。内容などは全く考慮せず、声のトーンによって、相手のテンションを誘導するつもりですること。実際に、女の子の口説きに限らず、説得や誘導は論理的に行われるわけではない。説得、誘導される相手のテンション次第によって、拒絶されそうだったものも受容されることが多い。暗くお願いされると拒絶したくなるが、明るくお願いされるとなんとなく受けてしまうことがあると思う。それと同じ。

・メッセージを伝える
例「きれいですね」
ナンパの中でこれほど意味のない言葉はない…わけではない。相手がトランスに入っていない段階で発せられたこの文句ほど意味のないものはないが、トランスに入った状態でこれを発すると相手は受け取ってくれる。つまり、ある程度、相手の状況や感情の描写を繰り返し、相手の雰囲気が柔らかくなったところで、「本当はきれいだなと思って、声かけたんですよ。」と言うのと、そのまま会った瞬間に「きれいだなと思って、声をかけました。」と言うのとでは相手に対する心理的な効果が全く違うということである。

・要求する
例「電話番号を教えて下さい」
これもメッセージを伝えることと同様、トランスに入っていれば教えてもらえる。入っていなければ、まず難しいだろう。いわゆるナンパ初心者の方は良い関係になっても、これが出来なかったり、反対にいきなり電話番号を聞こうとしたりする。自分が言うことに一生懸命になり過ぎて、相手が見えていない証拠である。どんなにシンプルな物言いでも相手に聞いてもらえるのは魔法のように見えるかもしれない。その秘密が相手の状態を把握し、変化させようとする話術にある。ナンパに限らずコミュニケーションは、何を相手に言うのかではなく、相手をどのような状態に導くかが大事。

他のナンパの技術については、ナンパマニュアル目次へ

歌舞伎町を散歩してみて/ナンパ、セックスへの依存症/人が声をかけること

 友人と歌舞伎町をゆっくりと歩いてみた。たくさんの女の子たちが歩いている。皆、どことなく寂しそうで、この町にいる人たちは皆、ぼんやりとトランスに入っている僕と目が合う。こうしているとふわふわしている人と目が合い易い。僕はナンパの時に、こうして対象を見つけている。人々が急いでいるようなところでは、こうして目が合う人は少ない。オフィス街の通勤時などは全く目が合わない。

 以前なら、僕は何も考えずに即系ぽい子に声をかけていた。それがナンパ師だから、みたいな感じで。ナンパを教える立場として、自分も毎日ナンパして、毎日違う女の子たちとセックスしていないといけないと思っていた。もちろん、今でも、ナンパの講師にそれを求める人もいるだろう。しかし、次第に、僕に講習を依頼してくれる人は、そういう人たちではなくなってきた。
 以前、この悩みをある人に言ったことがある。そうしたら、その人は笑っていた。
「高石さんがそんな普通のナンパ師みたいにギラギラしていたら、僕はアドバイスを求めたりしませんよ。」
 その言葉を聞いて、とても安心したことを覚えている。僕は色々な女の子とセックスしたかった。でも、段々とそれをこなしていく度に、あまりセックスしたいとは思えなくなった。綺麗だから、スタイルがいいからセックスしたいとも思えない。なんとなく、ぱっと見て、姿勢や歩く姿、そして話した時の声の質が美しいと思った人とだけ、セックスするようにしている。

 だから、無理矢理お酒を飲ませて…とか、無理矢理トランス状態に入れて、ふわふわした状態にして…とか、そういう、相手が隙を見せた瞬間に掠め取るようなセックスは久しくしていないつもりでいる。

 だけど、もう声をかけることを身体が拒絶していた。新宿ロフトプラスワンの前を通ったとき、思い出した。あの宮台さんとのトークイベントを境に、自分は完全に変わったと思う。それがナンパすることを拒絶するようになったきっかけだった。あのイベントを通して、かなり深いトランス状態に入って、人生が変わるきっかけになったという話を色々な人から聞かせてもらう。その度に思う。自分が一番変わったと。

 僕はそのイベントの前日、興奮し過ぎて朝まで眠ることが出来なかった。そして当日、起き上がったときに、
「もう今日からナンパをしなくていい。」
 その言葉が浮かんできて、胸の奥の方へとすっと心地良く突き刺さった。爽やかな痛みが胸を通っていった瞬間に、涙が流れていた。今から思うと、自分の他者への依存症、セックスへの依存症をどうにかして振り払いたかった。未だ完全にというわけではないけれども、それが強く振り払われた瞬間だったように思う。

 なんとなくそんなことを思いながら、ぼんやりと散歩していた。皆、寂しそうにしている。たくさんのキャッチが声をかけてくる。一人一人、身体動作が違う。皆、違う動きをしているんだということに何だか感じ入っていた。なんだかよく分からないけど、こういう場所に来ると皆生きているんだなと思う。このまま、何の発展もないかもしれない人もいれば、大きく変わっていくかもしれない人もいる。ナンパ師もそう。ナンパに限らず、様々な恋愛をしている人もそう。そして、日々人と接している人には、他者との関わりの中で何かが変わっていくきっかけが延々と日常の中で与えられている。キャッチの声かけ一つでさえも、そこにその人と、その人の可能性が表現されている。彼が過ごしてきた様々な時間たちが何か自分の身体の中に流れ込んでくるような気がする。だから何というわけでもないけど、そういうことを感じた一日だった。

頂いたコメントへのお返事として/言葉を発すること、それを人に教えさせてもらうことについて

前回の記事、もう「ナンパするとき、なんて声をかけたらいいんですか?」とは聞かないで下さい。に寄せられたコメントを読ませて頂いて、色々と書くことがあるような気がして書き始めている。
僕は既存のいかにもナンパ的なナンパについて嫌悪感を持っている。それはあたかも、いかにしてコミュニケーション強者になるかの戦いであるかのようだ。それは分かり易く、難しいことではない。ナンパに限定するのであれば、躊躇せずに声をかけること、服装、髪型を整えること、澱みなく会話を続けられること、然るべきときに性的な話題を振ることが出来ること、然るべきときに女性の身体に触れることが出来ること、然るべきときにセックスしようと間接的に、或いは直接的に言うことが出来ること、そして、それが出来ずに失敗したときは気にしないでいることが出来ること。これらのことが出来れば、ナンパは出来るだろう。

並べてみると難しいことではない。見るからに不潔で、会話もままならないような人でなければ、これらのことをすればセックスすることは難しくない。

そして、皆、同じような口説き方になる。問題は、誰が一番早くその女性に声をかけたか程度のことである。誰でもいい誰かによる、誰でもいい誰かへの口説きが成立する。そこにあるのは、セックスが成立したという事実くらいで、何か他に有意義なものは見当たらないのではないか。セックスしたという事実以上の何かが残るものはあるのだろうか。

予め決められた言葉は、その人の身体の動きを硬直させる。暗記した言葉をそれがある程度の容姿を持った女性であるからという理由でその人に投げつける。そのとき、あなた自身の感情はどうなっているか。或いは、心の中には何が浮かんでいるだろうか。恐らく、何も感じていないし、浮かんでいない。慣れれば慣れるほど、そうなっていく。
毎日、スカウトとナンパに明け暮れていた頃、僕はノートにフローチャートを書いていた。女の子との会話など、そんなに複雑なものではない。ある程度のパターンがある。それを忠実にこなせるロボットに自らをしていくことがナンパの上達の近道だ。そう思っていた。そのとき、僕は自分が失敗することが怖かった。絶対に失敗しないロボットになりたかった。
言葉でやりとりすれば成立する相手などたくさんいる。
だけど、そういった言葉には何の意味もないことを教えてくれる女性たちもわずかながらいる。

彼女たちを前にしたとき、予め決められた言葉たちが萎縮してしまう。或いは、僕自身、それを発することが酷く自分自身を裏切っているような気持ちになる。じっと僕の目の前にいながら、僕の、準備されていない、彼女だけに向けられた言葉を待ってくれている。それを感じて、裏切ることなんて出来るだろうか。

僕はその経験をしてから、言葉を準備することをやめた。
それから、ずっと、自分がなんでスカウトをするのか、なんでナンパをするのか、それをしていない間はずっとそのことばかり考えるようになった。フローチャートにしていたものも、すっかり捨て切ってしまった。そうすると、もう積極的に他人と知り合うことがなくなっていった。そうすると、僕にとってナンパというものが技術を試す場でしかなく、自分の性的欲求や承認欲求を満たすものではなくなっていった。
ナンパとは、或いは戯れに他人と接してみることとは、その体験を通じて、自分が何者であるかを自ら確認することだ。
家族、数少ない友人、恋人以外との会話は全てそうだと思っている。

カウンセリングをさせてもらうとき、催眠術やナンパを教えさせてもらうとき、その僕の技術を求めて来て下さっている方に、僕が培い続けた技術を全力で使い切りたい。或いは、ナンパをするとき、それがどれほどの切れ味にまでなったのかを確認したい。そう思っている。

コミュニケーションをとるということはそういうこと。
楽して、無料で、セックスするためにあるものではない。

予め決められた何かを期待する人は、恐らくセックスへの近道を求めていると思う。
そういう人に提供出来ることは僕にはない。そういうことをし始めてしまったら、僕自身も機械化された教え方を強いられることになるし、僕自身の他人と接することへの考え方を変えなければいけなくなる。それが魅力的なことだとは思えないから、僕は予め決められた言葉を教えることはしない。

恐らく、そうした教え方をしている人たちは、お客さんのこともまた、声をかける女性と同じように物として見ていると思う。
だから、そういったシステマチックな教え方が出来る。
「声をかけてセックス出来る女の子もいれば、出来ない女の子もいる。まずは数を当たることだ。」
なるほど、それはそうかもしれない。だけど、こう言い換えたらどうだろうか。
「ナンパが上手くなるやつもいれば、ならないやつもいる。台詞を覚えさせて、上手くなるやつだけ上手くなればいい。」
女性に対する接し方はそのまま、お客さんに対する接し方にも繋がると思う。

僕は出来る限り、来た人がどんなに不潔な格好をしていても、タバコで口臭が酷くても、普通の会話のキャッチボールさえまともに出来なくても、今まで一度も女性とセックスしたことがなくても、少しずつでもいいから、自分の所作の醜さを認めて、それを改善しながら、気負わずに、自然な話し方が出来るようになってもらいたいと思っている。
だって、これまで、そういうことが上手く出来なかったということは、今までの所作に間違いがあったというわけだから、そのことは認めてもらわなくてはいけない。それを認めない人間には帰ってもらうこともある。そういう人を僕が上手く教えることは出来ないから。

最後に…
ハシモトさんから頂いたコメントの中の
「彼らは、語りうる言葉を持った安心感により、後に自然で美しい動作も獲得していくのではないでしょうか。」
というものについては肯定的に捉えている。

でも、はじめにそれを伝えることはない。
僕は何を言えばいいか聞かれたとき、「すいません、だけでいいですよ。あとは言いたいことがあれば言えばいいし、黙っててもらってもいいです。」と伝える。
そして、僕の選んだターゲットに「すいません。」とだけ声をかけに言ってもらう。そのまま黙ったまま、女の子の横に居続けて、女の子が気味悪がって逃げていくこともあれば、女の子の返事に何も答えられなくて本人が逃げてしまう場合もある。でも、それでいい。何も考えずに、一言目を発することが出来たという事実が大切で、それに慣れれば、「じゃあもし二言目が思いついたら、話してみて下さい。」と伝える。二言目が発せられれば、三言目、四、五…と続いていくのは容易なことだ。

そうして、自分の思いつくままに言葉を発せられるようになったとき、有効な切り返しや、その人が持ってしまっている有効でない言葉の使い方の癖を指摘させてもらうことがある。

いくら言葉を暗記しても、「語りうる言葉を持つ安心感」は得られない。不安によって、もっとたくさんの言葉を覚えようとしてしまう。
それよりも、何も考えずに女性と話せるのだという自信を持つことの方が、その人にとって、余程意味があり、発展する可能性を掴むことが出来る。

そして、僕は言葉を軽視しているわけではない。
その人から発せられていない、暗記された言葉を軽視しているだけで、言葉が他人に与える影響力については理解しているつもりだし、繊細に扱わなければいけないものだと思っている。だからこそ、暗記してはいけない。自分自身の心の中に浮かんだことを繊細に言葉にしていかなければいけない。それで相手に嫌われたり、怒られたりすることも必要だ。失敗しなければ学べない。

長くなったし、コメントに対する直接の返信ではないけれども、思ったことを書いてみました。
最後になりましたが、長文のコメントを丁寧に書いて下さって、ありがとうございます。

もう「ナンパするとき、なんて声をかけたらいいんですか?」とは聞かないで下さい。

ナンパを教えさせてもらっていて思う。発する言葉を重視してしまう傾向が人間にはある。
本当は人間の仕組みとして、身体の動きが相手に対する印象を強く決定づける。だけど、相手に何を言うかで悩む人が多い。殆どの人に対してだけど、言葉を重視する状態から身体の動きを重視する状態に意識をスイッチしてもらう必要がある。

ナンパをしようと思う。そのときの意識の動きは簡単に記すとこんな感じだ。
他人を見る…その人に何を話そうかと思う…。
その時点で失敗だ。見た瞬間に身体が動き出さなければいけない。無理して近寄って、予め覚えた言葉を他人に投げかけることにどんな意味があるのだろうか。
ドトールの店員が心を込めずに全ての人に同じトーンで言っている「こちらでお召し上がりですか?」や「ありがとうございました。」と同等の価値しかない。そんなやり方でナンパしようなんて女性を舐め切っているし、そんなやり方でナンパされるなんて、その女性は頭が狂っているほどに寂しいのか、セックスしたいかのどちらかだし、そんな女性とセックスはしたくない。(ドトールの店員さんにいい人もいます。)

そうした声をかける際の自然な動作を得てもらうためには大きく回り道をしなければいけない。カウンセリングやトランス状態に入ってもらうことや、実際の行動をとってもらって試行錯誤してもらう必要がある。それほど、自然であるということは難しい。内側からすすっと変化してもらわなければいけない。必要なものをその人にとりつけるようにアドバイスしてしまったら、自然さから離れていく。

僕自身がそういうナンパをするように心がけ続けてきた。そうすると、段々と無理に他人に話しかけることがなくなっていく。自分が安直な欲求で動いているのか、何かそれが自然な欲求であるという形で動いているのかが分かるようになってくる。これが自分のセックス依存症みたいなものを解決していったような気がする。扇情的なものを見れば誰だってセックスしたくなる。それを見るたびに声をかけるのは、延々とオナニーをし続ける猿と変わらない。

これを一言にすると、嫌なことはやらないということになる。
自分の内側の声に意識をもっと傾けて…と書くと、途端に怪しいスピリチュアルめいた感じになってしまうけど、でも、そういう感じではある。

草加大介という人にナンパを教えてもらったという人がよく来る。女の子にかける言葉を暗記させて、街に出て声をかけさせるらしい。多少の引っ込み思案程度の人であれば、それで上手くいくだろうけど、身体性を失ってしまった人は成果の上がらない悲惨なナンパマシーンになる。余程セックスに飢えて、誰でもいいからセックスしたい女性に出会わない限り、成功することはないだろう。そんな女性はなかなかいないので、結局彼らは何年も成功せずに、延々と覚えた台詞を女の子に言い続けることになる。上手くいかなければ、今のやり方を疑えばいい。当たり前のことだけど、この当たり前のことは視野が狭くなればなるほど出来なくなる。

僕はこうしてナンパ指導を始めて、そういう人たちにどうすればいいのかということを今後はもっと考えないといけないのだということを思い始めている。

彼らは僕から女の子を口説く魔法の言葉や必殺技みたいなのを教えてもらえると期待してくれている人が結構多い。そんなものはない。技術はコツコツと積み重ねていくものでしかない。その魔法を心待ちにしている人は、「女の子を落とす」ということに関心が向いている。僕は全く違って、「その人の動作が美しいものであるか」ということしか考えていない。女の子なんて落とせなくていい。あるいは、美しければ、下らない台詞を覚えなくても話してもらえるようになる。

そして、彼らが覚えている台詞は下らない質問ばかりだったりする。
「今何してるんですか?」「OLさんですか?」「買い物?何を買いに行ってたんですか?」
こんなこと、知らない人に質問されたら鬱陶しいし、不審者としか思えない。
質問なんていくらしたって意味はない。下らない質問が、どんどん彼女たちとの距離を開いていることに気づいてもらいたい。

自信のない自分に魔法を付け加えたところで、何も起こらないし、そんな自分に付け加えるべき魔法のような技術というものはない。だけど、ある程度の技術と自信をつけたとき、普通の人が見ても何が起こっているのか分からないような魔法のテクニックを身につけることは出来る。ナンパがきちんと上手くなってもらうためには、テクニックを身につける以前の問題のところ、今の自分を認めて、自分の力をどのように伸ばしていくのか、それを冷静に想像出来るようになってもらう必要がある。

結局のところ、「ナンパするとき、なんて声をかけたらいいんですか?」という問いに対する答えは「あなたのコンディションを整えて、話したいことをお好きなようにどうぞ」しかない。そして、それが一番効果的なのだ。

平板な人生の中で感じるトランス、変性意識状態/ヘンリー・ミラー『北回帰線』

淡々とした何気ない、人によっては少しだけ破天荒にも思える日常が描かれる。僕には退屈に思えた。それでも、色々な人に薦められたので読んでいた。

物語の進行やエピソードにあまり特筆すべきものはない。
この本の中で大切なのは、主人公たちと街との関係性。そしてそれを通じて突然訪れるトランス状態だ。

それを思ったときに自分自身の日常というものが心に浮かんだ。
特筆すべきものなどない。毎日淡々と暮らしている。
僕などはカウンセリングやナンパを教えること、催眠術を教えること、それを除けば、殆どがぼんやりと考え事をしたり、本を読んでいるか、女の子と話しているか、友人と飲んでいるか、セックスをしているかだけだ。それ以外に特にしていることはない。あと、気功とか、ヨガとかもしている。

誰のものでもそうだと思う。
そんなに劇的なものなんてない。その中で皆、自分のことを考えたり、街の中をぶらついたりしている。
そういう日常的なものを見つめ続けている小説だった。そして、その日常をじっと集中して、見つめることで何か新しい認識が生まれてくるのだということを教えてくれるものだった。

特にこのブログはそうした小説を紹介するところでもないけど、日常生活の中でトランス状態を感じたいという人には是非読んでもらいたい本だった。

例えば…

“一秒の何分のいくつかのあいだ、癲癇患者のみが知るのを許されているというあの完全な透明状態を、ぼくは経験した。”

“…プルーストをして、彼と同じような人々にだけ音と感覚の錬金術がわかり、人生の否定的現実を芸術の本質的な意味深い輪郭に移すことができるように人生の描写のデフォルマシオンをさせたあの啓示の力を、ぼくは、ふたたび経験した。”

“ラファイエット広場までくると、教会に向って腰をおろし、その時計台に、じっと見いった。それは建築物としては大してすばらしいものではなかったが、蒼味をおびた文字盤の色合が、いつも僕を恍惚とさせた。今日は、いつにもまして蒼味をおびていた。それから眼を離すことができなかった。”

とトランス状態に主人公は突然入り込む。それは大抵、主人公にとって重要な出来事が終わって一人になったときで、そのときに今まで目にしてきた日常の中から得られたものを例えば以下のように内省し始める。

“おそるべきは、人間が糞の山から薔薇を創造してきたことではなくて、あるさまざまの理由から薔薇を欲せずにはいられないというそのことなのである。ある理由、そして他のさまざまの理由から人間は奇蹟を探し求める。それを手に入れるために彼は血のなかにはいりこむ。彼は、いろんな観念で、おのれ自身を瞞着する。おのれの人生のただの一秒間でも現実のいまわしさに眼を閉じることができるなら、彼は、はかない影にでも、よろこんでとりすがるであろう。彼は何事も耐えしのぶ——恥辱、貧困、戦争、罪悪、倦怠——一夜明ければ何事かが、奇蹟が、人生を耐えうるものとする奇蹟が起るだろうと信じて——。…それなのに一方、街の灯に照らしだされた向うでは、亡霊のごとき群衆が唇をなめており、そして彼らの血は水のように薄い。しかも際限のない苦痛、悲惨から、奇蹟は一つもあらわれない。ほんの微小な救いの痕跡すらもない。ただ観念が、殺戮によって肥えふとるべき蒼ざめやせ細った観念があるだけだ。胆汁のように出てくる観念、死体を切り開いたとき出てくる豚の臓腑のように観念があるだけだ。”

このような内省が時折、挟まれる。

どんなことをしたって、それが特別なものになんてなり得ない都市生活というものがある。それは僕の生活でもある。ナンパをして様々な人たちとセックスをしたところで何が起こるわけでもないということを知る。カウンセリングなども特殊な職業ではあるだろうけれども、様々な人たちの悩みを聞いたところでそれが僕に何かをもたらすわけでもない。何か、大切にしたいものがあるとするならば、平板な生活を懸命に生きる中で見出すトランス状態と、その中で見出すヴィジョンなのだということを思わせられた小説だった。