月別アーカイブ: 2012年7月

ナンパのトークイベントに向けて。印象深い夜のこと。

友人のナンパ師が心を開いて、トランスに入れるようになった。
彼はずっと自分の心を閉ざしていたように思う。僕はそれでは彼の能力を十分に使えていない、もったいないと思っていた。

その彼が宮台氏とのトークイベントの数日前に完全にトランスに入って、僕との待ち合わせに現れた。一緒にお好み焼き屋に行った。
「今、お好み焼き食べたいです。食べたら泣いてしまうかもしれないくらい食べたい。」
と、彼が言った。その彼の言葉を聞いて、いや、彼の隣にいて僕も泣きそうになっていた。ずっと彼と日本のナンパを変えたいと話し続けていた。それがもしかしたら、数日後に何らかの形で実現するかもしれない。宮台氏とトークイベントが出来ることが嬉しいというよりも、彼と一緒にここまでやってこれたということが嬉しかった。

お好み焼き屋に入った。
接客も悪く、周りの客も変なエグザイルみたいなギャル男とかサラリーマンばかりでお店の雰囲気は最悪だった。彼が苛々していた。
「なんか最近、こういう奴らが嫌で仕方がないんですよ。」
彼は今まではこういう人たちに苛々したりはしなかった。それは彼が心を開いておらず、そういう人たちのことを客観的に外側から観察出来ていたからだと思う。トランスに入ると、彼らの声のトーンがいちいち自分の心の中で響いて、彼らの気持ちが伝わってきてしまう。でも、それをコントロール出来てはじめてトランスの意味がある。
「僕はトランスに入って、スカウトしてたんだよ。どうしようもない風俗嬢とかキャバ嬢とかをこの状態で相手にしていたんだよ。」
「気が狂ってますね。」
「うん。でも、それくらいしないといけないと思って。そうしないとカウンセリングの能力が身に付かないから。」
そんな話をしていた。こういう下品な雰囲気も含めて、この渋谷のどうしようもない場所、どうでもいい人間たちが僕らの舞台になっている。僕にとって、ナンパはこういうどうでもいい奴らを凌駕するための行為だった。
「こういう不愉快な奴らと付き合う人間がいるってことだよね。」
「そうですね。」
「こんな奴らと付き合うような女なんて相手にしなくていいと思わない?」
「はい。僕はいつもそう思ってたんですよ。高校生のときとか、なんで女はこんな馬鹿みたい奴らと付き合うんだろうって。」
「うん。今はこんな奴らも、こんな奴らと付き合うような馬鹿な女も興味ない。それでいいと思わない?」
「そうかもしれないですね。」

そんな話をしながら、すぐにお好み焼き屋を出た。
二人でコーヒーを飲もうと渋谷のツタヤにあるスタバに行った。
木曜日の夜10時くらい、人がたくさんいる。人がたくさんいると、こういうとき、どんどん盛り上がってきて、狂気じみてくる。僕は完全に薬をやった人間のようにハイになっていた。周りの人間を全員握り潰してやりたい。僕の大事な人以外、全部。
人が多くて、席が窮屈だったからか、しんじ君が
「代々木公園の方に歩きませんか?」
と言った。そして、二人で外に出て、センター街を歩きながら代々木公園の方に向かった。

二人の友人で引きこもっている男の子の話になった。その子は構ってもらいたがりで、僕と彼に思わせぶりなことを言ったり、自殺をほのめかしたりしてくる。僕はこんな奴はどうでもいい、友人でもなんでもないと思っていた。友人なら、助けて欲しいときにはっきり助けてと言うべきだ。暗に僕たちに助けるように仕向けてくる。彼はこういう奴に優しい。その友人の話になった。
「彼は元気ですか?」
「あいつは引きこもりで、もうどうしようもないし、どうでもいいよ。」
「そうなんですか?なんか心配だな…」
「僕はもうどうでもいい。生きたければ生きればいいし、死にたければ死ねばいい。」
「高石さんは愛があるんですか?」
「僕は愛なんてことよりも、自分のエネルギーが充満していて、それを自分のために使うことにしか今は興味がない。」
「僕は浮浪者にこのコーヒーをあげてもいいですよ。そういうのが愛なんじゃないですか。」
「僕はこれをそのまま、そいつらに投げつけたい。」
そして、二人で馬鹿みたいに笑っていた。二人とも少し狂気じみていた。でも、このまま突っ走っていけばいいと思っていた。

公園のベンチまで来て、二人で木を見たりしていた。
「あの木の葉っぱがあるじゃないですか。その葉っぱのライトが当たっていて、今ぼんやりとしているところ。トランスに入ると、ああいうのが凄く綺麗に見えるんですよね。そうしたら、そこから周りの、普段はなんとも思わないところまで綺麗に見えてきて、なんか泣きそうになるんですよね。」
彼は泣きそうになっていた。僕もそうだった。
こういう時間を、大切な友人と過ごせることが嬉しかった。人生の中で、生きていてよかったと思える瞬間はこういうものだと思う。
「僕はここから渋谷の方を見ると、実際は見えないんだけど、幻覚みたいにスクランブル交差点の辺りが見えてくる。それで、その辺りを歩いている人たちの姿が見える。それでその人たちの気持ちが何か伝わってくるような、彼ら全員を僕のやりたいように出来るような、そんな気持ちになってくる。トランスに入っていくとこんな感じになってくる。」
僕はベンチに座っていた。彼は座ったり、歩き回ったりしていた。
二人の周りの空間がぐらぐらと揺れていた。そして、自然と優しい気持ちになっていた。
「二人で今まで話し合ったり、やってきたことが、こうして形になったことが嬉しいです。」
「そうだね。」
渋谷まで歩いて帰った。ナンパは一度もしなかった。
二人で街の中を歩いて、その空気を感じるだけで十分だった。
終電前、握手をして別れた。
それからずっと、心地よいトランスが続いていた。

「愛の授業」宮台真司さんとのナンパのトークイベントのこと

今週の土曜日、ナンパのトークイベントがある。
僕はこの日を待っていた。
今まで、ナンパをする意味、或いは、他人と会話することの意味、一人で生きられないことの意味、生きることの意味、なんかよく分からないけど、ずっと意味を考えたりしていた。結論は出ていないし、出ることは難しいだろうけれども、他の人たち、それも生命力があって、考える力もある人がどんなことを考えてきたのかを知りたい。

夕方、夕立の終わった街の中を散歩してみる。
そうすると、優しい光、水と埃の混じった匂いとともに人々がまばらに歩いている中にいる自分を知る。身体がこの雰囲気を受け取る。そうしたとき、生きているんだなと感じる。
それ以上のことなんて、必要ないと言えばない。

だけど、ふと魅力的な女性を見る。
渇きが生まれる。

話してみたい。身体に触れて、悶える姿を見たい。或いは、僕を悶えさせる姿を見てみたい。
話しかけたらどんな反応をするんだろうか。いきなり「セックスしたい」って言ったら、この人はどう答えるんだろうか。セックスしたら、この人はどんなことするんだろう…。

一人で風景の中で感じていた折角の充足が失われる。

渇きと充足とを繰り返している。

その単純な繰り返しをどうにかしたい。
何かがそれをどうにかしてくれるのだろうか。

知り合いのナンパ師は街に出ると宝石がたくさんあって、その宝石を掴みたくなると言っていた。
普通の人たちは、それを触れてはいけない観賞用の、美術館にでも飾ってあるような宝石だと思っている。
ナンパ師はそれに触れられることを知っている人間だ。
彼はその宝石を手に取って、そして、ゴミ箱に思いっきり捨てることが楽しいと言っていた。

捨てるんだったら、わざわざ拾わなくていいじゃん…と僕は思った。

手に取ってしまえば、殆どただの石に過ぎない。
触れたことがなければ、美しいものに見えてしまう。それは幻だ。
幻を剥ぎ取っていくと、段々と街の中から宝石が消えていく。

それは寂しいことでもあるけれども、でも、街が現実の姿を現し始めたのだなとも思う。
その中で森林浴をするように、のんびりとしていたい。
それが出来れば、そのまま静かにしていられるのになと思う。
或いは、そんな静かな瞑想状態などは放棄して、酒池肉林の中に身を埋めていくべきだろうか。
或いは、その繰り返しの中で生きていくべきだろうか。

自分はずっと、こんな単純なことの繰り返しをしている。

渇きを覚えたとき、身体は最高のパフォーマンスをしてくれる。
もう動物だ。話したいことを話すし、セックスしたければしようとする。
拒絶されることだってある。それがナンパであって、やること自体はそんな複雑じゃない。
何よりも渇きがパフォーマンスを発揮させる。

それを遠くから指をくわえて見ていたってどうにもならないし、ナンパ本を読んで、ナンパではじめにどんな風に声をかけたらいいかなんて文章を覚えているやつもどうにもならない。どうにかなったとしても、下らない。それは少し複雑になった、少し勇気がいる、コンビニの店員、マックの店員、工場でなんかの作業を繰り返しし続ける人でしかない。職業に貴賤はない。でも、繰り返しの単純作業でしかないってこと。心を震わせるものではないし、そんなものは自分には意味がない。

いつも新しいものに飛び込んでいきたい。システマチックにやってしまえば、それは新しいものではない。単なる何度も出てくるちょっと違う形をした人形でしかない。自分がいつも違うことを知ること。いつも違う気持ちで声をかけている。かけていけば、自然と自分の気持ちは変わっていく。考えも変わる。飛び込んで、声をかけて、飛び込んでいくようにセックスをして、他人に身を投げ出していくと、何度も自分は生まれ変わる。

その生まれ変わりに意味はあるのだろうか…とまた覚めていく。
没頭しては覚めてを繰り返す。

よく分からない。今正直に思うことはぐちゃぐちゃした、壊れてしまうようなセックスをしたいということだけだ。

という気持ちでトークイベントに行こうかなと思う。

「ナンパ個人指導」感想:「初めの一声にすべてを賭ける」

ナンパの個人指導を受けて下さった方に頂いた感想です。

 

長い時間にわたって指導してもらいまして、
ありがとうございました。

今まで自分がやってきたナンパがどうして上手く行かなかったのか、
声の質、肩の力、姿勢、位置取り、集中力、エネルギー等、
高石さんの説明で、実感をもって理解出来てよかったです。

今までは高石さんが繰り返しおっしゃっていた
「初めの一声にすべてを賭ける」の正反対をやっていたんだなと思い知りました。

機械的に手を抜いて声をかけて、反応が良かった女の子だけを相手にするような
ナンパをしていたので女の子にも失礼でした。

また、声をかけた後に女の子に心を開いてもらうには
結局のところ自己開示をしたあとに見える男としての魅力が勝敗を分けるんだなと思いました。

そこを意識しながら、これからの時間を使って成長していければと思います。

ありがとうございました。
これからも高石さんのご活躍を期待しています。

ナンパを始めるときから少し経つところまで

「ナンパ初心者 @shun_np の留学前、日本での最後のナンパ」

上のリンクにあるまとめに登場する、二人のナンパを始めた男の子のことについて書きたいと思う。
二人はライバルのような関係で、はじめは互いに足りない部分を持ち合うような関係だった。一方は他人に対する想像力があり、その分甘い。もう一方は想像力がない分、突っ込める。

互いのそういう特性を毎日一緒にナンパすることで理解していったのかもしれない。少し経つと逆転した。想像力がないと思った方が思いやりや慎ましさを持ち、反対に突っ込めなかった方が力強さを持つようになった。人間ってこんなに短期間で変わるんだと驚いた。

そうしていると、二人ともなかなか結果が出せずに焦り始め、どちらも固くなっていった。どちらも突っ込むけど、相手に対する想像力がないから、女の子に拒絶され易い。でも、この時点で既に、二人はそれぞれ、二人が持っていた長所を互いに持ち合っているはずだった。僕は見ていて、上手くいくはずなのにと思っていた。

焦りが二人に何らかの影響を及ぼしていたのかもしれない。彼らも利用しているツイッターを見ていると、連日、ナンパ師たちが電話番号を聞けたこと、連れ出せたこと、セックスが出来たことを報告している。でも、本当はそんなのは数多くいるナンパ師たちの中でも一部のはずだ。極端な例をあげれば、何年もナンパをやりながら、全く成果を上げられずに困っている人だっている。でも、成果の報告だけを見ていると、自分だけが出来ていないと焦ってしまうのかもしれない。それと同時に、焦りで緊張が高まってしまい、外に出ても地蔵になる。地蔵になれば結果が出ない。そして、また焦って緊張をしてしまう。もしかしたら、そういう繰り返しがあったのかもしれない。

 

結局、ナンパで必要なものは、安定した声かけと数だ。安定した声かけが出来ていれば、あとは数をかければいい。そうすれば、いつか上手くいく。一期一会という言葉はあるけれども、声かけのときはある意味、そういうものを気にしない方がいい。出会いを大切にするのは相手がちゃんと応じてくれたときでいい。

 

彼の最後の日。目標を持って声かけを続けていたのを知っていたので、お節介かもしれないと思いつつも、何か出来ないかと思ってナンパしている様子を見に行った。二人の声かけは緊張に覆われていた。連日の努力で培ってきたものが全て、緊張の下に埋もれてしまっているように見えた。ならば緊張をとればいい。それだけのことだけど、ナンパをするときに緊張しないということがどれだけ難しいことか。もしそれが出来るのならば、誰でもナンパは出来る。それが出来ないから、コミュニケーションに関するノウハウ本などが売れるのだろう。

ナンパという現象によって毒されてしまっている。ナンパがナンパと名付けられてしまったことで、それにはノウハウが加わったり、競争相手が出来たりする。でも、本来は気になった異性に声をかけることでしかないはずだ。それは動物だって、虫だってしている。特殊なことではない。それがナンパという名前がつけられたことで、考えなくてもいいような余計なことを考えさせるにいたっている部分があると思う。

彼が声かけしようとすると極度に身体が緊張する。そして、女の子には失礼な態度をとる。女の子はもちろん拒絶する。拒絶すると彼はさらに追いかける。
もともとの彼はそういうタイプの人間ではなかった。優しくて、控えめだった。この状態なら、ナンパを始める前の方がナンパが上手かっただろう。だけど、誰もが通る道だと思うけど、こうして試行錯誤の上にガチガチに緊張してしまって、自分を見失ってしまう。
そして、見失った上で、もう一度自分を見つけたときに、素の自分が以前よりもはっきりとした形で見つけられるものだと思う。僕にしたって、結局はその繰り返しを延々としている。緊張していないように見えて、緊張していて、それを必死で取り除こうとしている。

そういう話をした上で、こんな失礼な声かけをするためにナンパを始めたわけじゃないはずだということを伝えた。そうすると、彼が泣いていた。ナンパは辛い。やり続けると、本来の自分の姿をどんどんと見失ってしまう。自分でもそんなことをしたいわけじゃなかったと思う。

そう思えるうちはまだ大丈夫だ。涙を流して、一緒に缶ジュースを飲んだ後、彼の声かけは始めたときの穏やかさと、これまで続けてきたことによって身につけた力強さとを同時に発揮できるようなものに変わっていた。
僕はナンパをしていたとき、ネットも見ていなかったし、ナンパ友だちもいなかった。だから、情報が入ってこないまま、我武者羅にやっていた気がする。それに対して、ネットがあって、成果が報告されて、ナンパ友だちも出来て、ナンパのノウハウがブログで読めるという現状がある。

それは便利だけど、焦りを生むものになることもあるだろうし、ノウハウに偏ってしまって、本来の自分を見失うことにもなり易いのかなと思った。それは発信する側の責任ではないけど、そういうことを考えた上で発信する必要もあるように感じた。

 

もう一人で出来そうだから、最後の一日、一人で頑張ってと送り出したんだけど、彼がツイートしていたようなことになって良かったと思う。成果をあげることも大事だけど、その中で感じる他人の生活や人生、考え方に触れることが、より他人を感じられるようになるためには大切だと思う。

それはたくさんセックスしたからといって得られるものではない。寧ろ、数を求めるナンパ師はそういう部分が麻痺してしまっている部分もあると思う。ナンパする前の彼を知っているだけに、そうなって欲しくはないと個人的には思っていたから、僕の勝手な親心だけど、良かったなと思った。

 

しかし…ナンパってなんだろうと思う。人を大きく成長させるものだったり、快楽の蟻地獄に引き摺り込んでいくものであったり。未だによく分からない。下らないと思ったり、面白いと思ったり、自分の中で様々な結論が出つつあるけど、決定的なものはまだ分からないでいる。

それは人間関係そのものであるようで、そうではなく、人間関係のほんの一部を細かく、深く掘り下げたもののようでもある。出会うことについてのレッスンであり、関係性の継続については無視させるものでもあるかもしれない。

僕自身のことだけど、来週の土曜日に宮台氏とナンパについてのトークイベントをする。僕などよりずっと長い間ナンパや男女の性愛、人間関係について語っている。僕はずっとこうして、自分のナンパ、そして他人のナンパを今の現場で見続けている。何が話せるのだろうかと考えていた。その中で何か新しい視点を得られたらと、とても楽しみにしている。

「セーックス!しよ?」或いはナンパでの声のかけ方について

自分のナンパの教え方は正しいのだろうか。いつも考える。それで、自分がやってみる。自分のやり方もどんどん変化している気がする。前よりも、はっきりと方法論として成立し始めている。やるときに全くストレスがない。さぁやるか、と思うと勝手に身体が動く。話しかける言葉もいつも違う。自分の口が即興でオープナー(はじめに話す、相手に心を開いてもらうための会話)を作っていく。身体の力を抜いて相手を見る。そして、相手に近づき声をかける。あとは全て自動的に動く。

僕がナンパを始めたとき、教えてくれる人はいなかった。とにかく自分で、自分の性欲、周りに対する悔しさで声をかけまくった。そうしたら、いつしか自然と、毎日違う女の子とセックスするようになっていた。教えさせてもらった人が上手くいっていないと「なんで!?」と思う。対人恐怖症で、今のように催眠術もNLPも様々な身体技術もナンパの技術もカウンセリングの技術も殆ど知らなかった自分が衝動に任せて無茶苦茶にやっていたことが、何故その技術を教えさせてもらった人に出来ないのかと思っていた。

もしかしたら、頭でっかちに僕がさせてしまっているのかもしれない。何も考えずに、セックスしたいと思いながら、その衝動に任せて女の子に声をかけていればすぐにセックスできる。それだけのことなのに、身体技術やら、催眠術やらと言っているから、わけが分からなくなってしまうのだろうか。

ただ、同業者の人には面白いと言われる。彼らが面白いと言ってくれるのは、彼らが既にある程度の技術を持っているからだろう。本当は僕はもっと教え方をシンプルにしなければいけないのかもしれない。誰にでも分かるように、もっとシンプルにしていって、もっと簡単に身につけられるようにして、それから複雑なことを伝えればいいのだろうか。

普通に『恋の罪』で冨樫真が「セーックス!しよ?」と叫んでいたシーンのように、女の子に言うイメージで声をかければいいのかなと思う。結局、声かけられた時点で女の子だってセックスすることを念頭に置いているのだから。そういう潔さ、欲望に対する忠実さがあった方がいい。

僕は普通に「色っぽいですね…」とか話しかけている。それから殆どわけの分からないことを言ったりしている。「あの、そのなんか出てる紐あるじゃないですか…そう、それです。そういうのがね…」とか。あと、「胸、いいですね。いつもそんな出しているんですか?いや、すごくいいことだと思いますよ。それでね…」とか言って別の話をしたりしている。常識的な人が見れば、普通に気狂いだ。

でも実際のところ、言葉なんてなんでもいい。声のトーン、自分の雰囲気、立ち位置、向きなどを、身体全体を敏感にしながらコントロールしながら、相手との関係性を築いている。だけど、それは相手には築かれず、相手の無意識にアプローチし続けている。これがナンパにおける身体動作の有効性だ。

真面目にナンパとか、声をかけることとかについて考えている人は頭おかしいんじゃないかと思うかもしれないけど、実際はこういうのが効果的だ。知らない人に真面目に話しかけられても怖い。真面目な話は関係性が築かれてから初めて始まる。

そして、その裏には常に「セーックス!しよ?」という感覚が流れ続けている。「あなただって人間でしょう。そして、あなたにとって僕が魅力的ならば必ずセックスすることになる。」そう思っている。

この気狂いのように、欲望の渦巻く人の波にダイブしていく感覚が心地良い。

その心地良さを知らなければ、その心地良さの中毒にならなければ、ナンパは続けられない。中毒だから楽しいだけではない。頭がおかしくなければ、自分が中毒だってことくらいはすぐに分かる。中毒になっておらず、ナンパが素晴らしいと思っている人は頭がおかしい。それこそ気狂いだ。でも、その中毒に、気狂いになってしまえというところ。ナンパをすることが必要だなと思うのなら、その中毒の中に、狂気の中に見つけるべきものがあるはずだ。

「セーックス!しよ?」については下の動画1分24秒辺りを見て下さい。

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