月別アーカイブ: 2011年2月

日記、今日のできごと

ナンパ友だちと言うべきか、何と言うべきか、qqille君とゆっくり話した。
まさしく、性とナンパについて渋谷で考えた、である。

僕はツイッターを始めて、ナンパの講座などをし始めてから、色々な優秀な人たちと出会う機会が増えた。
彼もその一人である。

お互いの今後の方向性とか、ナンパについてどう考えているかとか、二人で話し合ったものだから、このブログには書けないけど、書きたい誘惑に駆られてしまう。

彼には、僕はもうナンパをしなくていいんじゃないかと言われた。
僕はナンパをここ数ヶ月していない。
それに対して、罪悪感というか、焦燥感というか、これでいいのだろうかという気持ちがある。
何か、自分の力がどんどん失われていくのではないかという不安がある。

大切なのは、ナンパで女の子をすぐに落とせるということではなく、他者とのコミュニケーション能力であると僕自身は思っている。それでも、ナンパをしないと不安になる。

そろそろそういう不安感から解放されてもいいかもしれない。
実際、大切にしている彼女もいるし、わざわざそんなことをする必要もない。

でも、なんとなく、自分が力を注いできたナンパというものについて、そこから派生していったコミュニケーション技術というものについて、もう少し考えたい。
催眠もスカウトもナンパもアングラなものとして捉えられることが多いような気がする。

どの分野においても、それをメジャーなものにしようという試みをしている人がいる。
僕はこれら三つのことについて、合わせながら色々と考えて、メジャーなものとしてみたい。

コミュニケーションというものが、一部の傲慢な人たちの勘違いの技術ではなく、優しく、柔らかい、誰にでも身につけられるものだというような認識を多くの人たちが持ってもらえるようにしたい。
他人を傷つけるような、優しさとは程遠いコミュニケーションに傷つけられて、自信をなくしたような人たちに何か出来ればいいと思っている。
まぁそんなものは既になされているかもしれないけど、個人的にはやってみたい。

初めてエーライフに行って、引いてしまったときのことを思い出す…。
自信満々なサラリーマンたちに囲まれて、こいつらよりも自分が優越しているということを証明してやると思ったとき。そんなことに利用された女の子には申し訳ないけど、僕はそういうメジャーな人たちが幅を利かせているような場所が嫌い。でも、負けず嫌いだから負けたくない。
全て、僕の被害妄想かもしれないけど、それは仕方ない。

話し方

催眠を人に教えさせてもらっていると、自分の話し方について見直すようになる。

なんか催眠って話し方のような気がする。
確かに何らかの手順を踏めば、かかり易い人はすぐにかかる。
だけど、それをさらっとすることに美しさを感じている。

もともと、僕はそんなに話すことが好きじゃない。
普段はずっと黙っている。ペラペラ話したいとは思わない。

誰かと二人になっても、殆ど黙っていたり、うなずいたりしている。
聞かれたら答える。

人に何かを教えさせてもらうとき、ナンパをするとき、スカウトをするとき、僕は突然饒舌になる。
こういうときは僕にとって、話をするときということになっているらしい。
話をすること自体がその人を表す、ということではあるけれども、普段からペラペラ話している人とは自分は違うと思っている。

話をするっていうのは技術であって、必要なときに使うもの。
例えば、料理をするようなものだと思っている。
普段から別に料理をすることはない。料理をするときだけ料理をすればいい。
同じように普段から無駄口を叩く必要はない。黙っていればいい。

多分、幼いときから僕はそうして黙っていたかった。
だけど、黙っているということが失礼なことのように感じられて、無駄口を叩いたり、黙りながら黙っていることに困惑したりしていた。

それが段々と、自分の好きな話し方に近づいているような気がする。
話をすることについて延々と考えながら、最後は黙ってしまうなんておかしなことかもしれないけど、もしかしたら僕はいつか人と話をすることがなくなってしまうのではないかと思っている。
そして、それが理想の話し方なのかもしれない。

ナンパはする必要があるのか 終わり

このシリーズは終わることがあるのだろうか。
一先ず終わらせたいと思いながらも、終わらせ方が分からない。
多分自分の中に明確な結論がないのだと思う。

ちょっと長くなりそうだけど、何も考えずに自由にキーボードの上を動く手に任せてみようと思う。

久しぶりに金曜深夜の六本木を歩いてみた。
ここで僕は毎日ナンパをしていたこともあった。

路上でして、クラブでして、路上でして…とにかく何かにとりつかれていた。

今歩いていると、男も女も虫にしか見えない。
道を譲ることも知らない男たち、そんな男の中で使える奴を見つける女たちが虫のように蠢いている。

初めてクラブにナンパに行ったとき、自分はこの森の中で戦わなければいけないと思った。
果たして、ナンパをしている彼ら、されている(?)彼女らに勝てるだろうか。

そのとき、カウンセリングを学んでいた。
立ち位置、声などのコミュニケーションにおける意義、重要性。他人をどう気持ちよくさせると言われているテクニック。
そして、ニール・バレットのスーツにプラダの靴に通っている大学名。
そういうものは果たして自分の武器になったのかどうは分からない。

その頃、僕はパニック障害や対人恐怖症が治りかけて、薬を飲まなくても生活は出来ていたけど、未だ自己嫌悪に苛まれ、他人と話すのが怖かった。彼女はいなかった。セフレももちろんいなかったし、セフレになってくれるくらいだったら、すぐに彼女にしたかったと思う。
容姿もいいわけではないし、対人恐怖でおどおどしていて、一般的に女性に好かれる雰囲気なんてものもなかった。
ボードレールの詩、リラダンの小説が大好きだった。そんなものは何の役にも立たなかった。いや、もしかしたらそういう感性は少し役に立っていたのかもしれない。

こんな下らない行為、下らない人間たち…と思いながら、森の中に潜り込んで、踊っている人たちの中で踊れる筈もなく、全ての女の子たちがなぜだか可愛く見えて、今見たらどうでもいいと思える子でさえ、可愛く、僕を拒絶するに違いないと思えて、立ち尽くしていた。

不細工なおばさんが一人で飲んでいた。
僕はもう彼女に話しかけるしかなかった。そうしたら、その人の友だちの綺麗な人が戻ってきた…。

この話の続きはさておき、それから僕は色んな女の子たちと話して、食事して、セックスして、好かれて、嫌われて、拒絶されて、振られて、追いかけられて、恨まれて、捨てて、捨てられて…と続けていた。

あるときから、僕はナンパのことを昆虫採集と言っていた。
友人とクラブに行こうという話になったとき、「今日も昆虫採集に行くか」と友人に言った。友人の隣にいた友人の彼女みたいな子は笑っていた。
「あなたのそういうところが好き」と言われた。
そう言ってくれた彼女も虫に過ぎなかった。
虫を見つけては、彼女たちの価値観という標本にして、心の中に集めていく。
やせている子もいれば、太っている子もいたし、可愛い子も不細工な子も、セックスが上手な子はあまりいなくて、大体皆、自分勝手なセックスをしていた僕も同じく、そして皆自分の話をしたがっていて、お金を持っている人も持っていない人も、育ちが良い人も悪い人も、10代から40代まで、なんか色んな人がいた。
僕は基本的には自分の話はせずに標本作りに勤しんだ。これをカウンセリングだと勘違いしていたときもあったし、その勘違いのカウンセリングで涙を流してお礼を言われて、いい気になったりもしていたし、いきなり切れられて食事中に何処かに消えていかれたりもした。涙を流してお礼を言われて、じゃあセックスしようとしたら拒まれたりもした。女の子の愚痴だけ聞かされて、セックスはおろかキスすら出来ないこともあった。そして、僕の話をしても上手に、ちゃんと聞いてくれることなんて一度もなかった。いや、嘘だ。一度だけ、一人だけいた。

周りの男の人たちはそうじゃないとか、お前はまだまだだとか言っていた。実際にそういうことを出来るのかと疑われたりもした。上からアドバイスもされた。気狂いだとか、お前は愛されていないだとか、いつか分かる日がくるだとか、僕の言っていることはよく分かるだとか、言っていた。
そんなのはどうでも良かった。
彼らに分かるはずもない。分かっていたのかもしれないけど、相手にはしていなかった。
僕は基本的に他人の言うことに耳は傾けない。
そして、言わない人の、僕の前で呑み込まれた言葉には耳を傾けようとしていたけど、それは聞こえたと思い込んでいただけのものかもしれない。
こういう性格だからなのか、やはり僕も人にアドバイスをするのは好きじゃない。
僕もしてしまうこともあるけど、アドバイスは嫌い。するのは愚かだと思っているから、出来ればしたくない。賛否両論はあると思うが、そう思う。

今日は六本木でそういう想い出の中に入っていた。

ナンパをはじめたとき、下らない、だけど自分のコンプレックスを刺激して止まない男、女、ナンパという行為をもう一度自分の中で感じてみた。
下らないとあのとき感じたことは、あのときと同じように下らなく感じたけど、恐怖、ここを通らないといつまでも自分は変わらないと脅迫されたような感覚はなかった。
相変わらず虫が蠢いていた。

あるとき、女の子に「あなたは虫を見るように私を見る」と言われた。
テクニックを色々試しているときに、「そうしたら私がどう反応するのか、見てるみたいで気持ち悪い」と言われた。
どちらの子にも当然振られた。

未だ自分は人を虫のように見ているのだということに今日は少しショックを受けた。
いつか、他人と僕との壁が消えてなくなることがあればいいと思っていたけど、まだ僕はこの壁を取り払うことは出来ないし、その壁は確固として存在しているし、それをどうにかとろうとしてセックスをしたところでどうにもならない事実が残っている。

他人って何か、自分って何か。
こうして大勢の人たちの中に埋もれて、冷静沈着を装って座っている自分って何だろう。
そう考えると、ふわりと自分の思考、自分自身と思っていたものが消えていく。
この風景の中に溶け込んでいくような感じがする。
目の焦点が定まらない。
ふわふわとして、何か答えが見つかりそうな気がしている。

答えはどこにあるだろうか。
僕の心だと自分で思っているものの、深い奥の方だろうか。
底のない井戸のようになっている、真っ暗、降りても降りても真っ暗だけど、何か掴めそうな気がする。
ここ数日、何度もこういうことをして
いる。
或いは、数年前からずっとしていたのかもしれない。
何かありそうで何もない。

入っていく、入り込んでいくと、この先は危険なような気がする。
落下したまま、もう戻れないかもしれない。
怖いけど、戻りたくない。
もう誰とも話が出来なくなるかもしれない。
目の前の人間が透き通って、もっと綺麗に見えるようになるかもしれない。
涙が出そうになるけど、理由は分からない。

これは数年前、鬱病になっていたときの感覚に似ている。
自分以外の人間、何もかもが遠く、隔絶されたものに感じる。

母親が現れる。
なぜか涙が止まらない。

だけど、じりじりと未だ先に進もうとする。
狂気が待っているのか。
本当の狂気というのはとても怖い。

母親は止めているのか、進めといっているのか、分からない。
進めとは言っていないような気がするけど、止めようともしていない。

一歩前に踏み出す毎に…
気づくと、今まで落ちていた井戸がトンネルに変わっている。

暗い。戻ることは簡単に出来る。入り口には一瞬で戻れる自信がある。
この深いところにはもう来れないかもしれない。
でも、進めば気狂いになるかもしれない。
気狂いに人は自身の意志によってなれるのだろうかとふと思う。

僕が今、その場所で見出せるものは母親だけだった。
それ以上先に行くのは未だ先かもしれない。

そうして、目を開けて戻ってくると自分は正気のままだった。

インディアンの儀式でこんなことがあるというのを思い出した。
ここまでのことは出来そうにはないけど…。

結局ナンパはする必要があるのかは分からないけど、この思いつきで書かれた文章の全体が自分の結論かなというところで…終わり。

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ぬくまちくん

友人がとても面白い文章を書いている。
それはぬくまちくんとささこという架空の人物がナンパで知り合ってからの彼らの日常を描いた文章。

面白いねって話をしたら、僕がぬくまちくんについて書くことになった。
彼女はささこの視点でずっと物語を書いている。
それに対して、僕がぬくまちくんの視点で書くということ。

僕は小説を書いたことがない。
何か作り事というのは僕にとって恥ずかしくて、うまく書けないまま時間が過ぎている。
今日は酔っているので、それを始めるにあたっての何かを書こうかなと思っている。

彼女のブログの中にこういうのがある。



あの夜が帰ってこないかな。



ぬくまちくんにはじめて会ったあの日、
手を繋いだだけでなにもかもが判り合えた。

わたしたちはお互いなにも判らないんだということ全てを
わたしたちが判り合えたあの夜。





ナンパ、というか、初めての出会いにはこうした不思議な感覚があるなーと思って、僕はこの文章が好きで何度も読み返している。
僕はたくさんの“あの夜”を経験してきたけど、帰ってくることはなかった。

ウテナを観て 自分を読むこと

少女革命ウテナを久しぶりに観た。
良い作品はいつも人を内省に引き入れる。
例えば…ジャンルは違うけど、『銀河鉄道の夜』はそういった意味で好きな作品。

数年前、何度も観た作品を改めて観直してみて思った。
これはいい意味で中身のない物語である。

演出の派手さとは反対に、内容自体はいたってシンプル。
その謎解きの要素を好む人もいるだろうけれども、僕はそのシンプルさに惹かれる。
謎解きみたいなものってオタク的な趣味を煽るだけで、こういう内省には全く関係がない。

シンプルであればあるほど、余白が多ければ多いほど、僕を個人的な内省の方へと向かわせる。
物語とは全く関係のない、今の自分の状況と重ねながらじーっと観てしまった。

こういうシンプルさっていうのは他人に話をするときも意識している。
シンプルに表現するというのは本当に難しい。
自分の心の中に起きていることを理解していないと、複雑な、個人的な話にしかならず、他人に内省を促すことは出来ない。
だから、いつも僕は中身のない話をすることに気を遣っている。
自分を伝えたい一心の、中身のある話には他人に聞かせる意味がない。
未熟な心が他人に伝えたいと思ってしまう自分のプライド、傲慢さ。そういうものが含まれない話にこそ、聞く意味がある。
説教やアドバイスというのは、この逆である。
こういう話の仕方については、今度ゆっくり書いてみたい。

偶然、その帰り道に友人と読書について話した。
人は本を読んでも、結局のところ自分についてしか読むことは出来ない。
ただし、その本が未だ自分の知らない自分を読ませてくれることもあるかもしれない。
そういう本に自分自身がなれればと思うし、自分にとってそういう本であるような人間に出会ってみたい。

こういうことを考えると『失われた時を求めて』について思いを馳せてしまう…けど、長くなるのでお終り。

下の動画は少女革命ウテナの決闘シーン。