月別アーカイブ: 1970年1月

接する相手の質感、或いは、ナンパに応じてくれる女の子の見分け方

街の中で声かけしていて、思うことがある。僕はスカウトでもナンパでも粘るタイプではない。はじめの声かけをしたときの質感で殆ど全てが決まっていると思っている。無視されたらダメということではない。相手の空気が固いか柔らかいか。柔らかい空気であれば、無視されていても入っていける。

そのために、丁寧に相手のガードを外していく。ガードを外した先に相手の質感が感じられる。その質感で成功か失敗かが決まると僕は思っている。だから、ガードを外せるかどうかが声かけの技術になる。

カウンセリングでも同じ気がする。いくら僕が何をやったところで、その人が望まないことをやらせることは出来ない。何か、ナンパは限定的なカウンセリングだ。相手のニーズをいち早く取り出す。ニーズがあれば成功する。ニーズがなければ失敗する。

でも、この場合、成功失敗はニーズが引き出せたかどうかであって、その人とどういう関係になったかではない。以前はどんな人でもどうにかしようとしていた。ナンパに限らず、他人に対して、自分が出来ることの少なさというものを僕は感じているのかもしれない。

早足で逃げていく女の子を、ナンパ師やスカウトが必死に追いかけていくのを見ているときに思う。それはもう追っても意味がないと。すとんと、彼女の斜め前に無防備に僕が立つ。そのとき、彼女のガードは外れている。追いかけないこと。前提として、追いかけようとして声をかけるから逃げられる。

自分自身の威圧感で作り出した女の子のガードを会話で解こうとする。こちらが威圧感のない雰囲気なら、そもそも聞く気のある女の子はすぐ止まる。威圧感は他人に対する自分自身の持つ恐怖感によって作られる。

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他人への欲

いつも京都から帰ってくると、なんだかぼんやりとしている。欲がない自分。いいことなのかどうなのか、分からない。昨日も渋谷の街の中、たまたまいたナンパ師の友人のナンパを見ていた。なんだか山篭りから帰ってきた人のように自分がなっている。

周りの欲がよく見える。寂しい、構って欲しい。その中でぽつんと立っている自分。何も思っていない。空白の心の中に色々な人たちの感情が流れ込んでくる。気持ちいい。流れては去っていく、僕の心の中の他人の感情。

こういうとき、確実にナンパが上手くいく。純粋な関心で向かっていける、対象となる女の子がいればいいなと思っていた。反対に欲があると、対象に対して固い動きをしてしまう。その固さが相手に対して抵抗感を生んでしまう。

なんだか、この状態を試したくて、スカウトの声かけをしてみた。相手に壁を感じない。身体の力の抜け具合、立ち位置、距離…それら、自分の身体の動きの変化で、相手の警戒心を解いていく。最近、声かけは身体を使った警戒心を解くゲームだと思っている。

欲…いつも、他人の欲を感じた瞬間にその人から身を遠ざけてきた。ナンパした女の子、関係を持った女の子から欲を感じさせるメールを送られた瞬間に、僕は関係を切る。欲って一体なんだろう。自分を分かって欲しいと、無理矢理に相手に流し込まれるイメージのようなもの。

他人は自分の欲を叶えるために存在しているのではない。でも、その欲で相手と繋がる方が簡単だ。それをしたら、互いに何かを奪い合う関係になってしまう。

自分の中の透明感を感じる。さらさらと流れる水のような自分と相手。その水の流れが少しの間だけ交わる。それは無理矢理に相手に流し込まれるものではない。同じように流れて、交わっていく。そうして互いの目指す場所を見つけて、また互いに別れて流れていく。

他人に欲を流し込もうとしている人は見ていて分かる。街のナンパ師などはその典型かもしれない。女の子を探している。そのときの抑えられていない欲がその人の雰囲気に表れている。一体、こんな人に話しかけられて応じる人はいるのだろうかと思う、その雰囲気。

でも…欲がなければ、人はナンパなどしない。きっとその欲のあり方が問題なのだろう。その欲のあり方を変えるだけで、すんなりとナンパが出来るようになる。

僕はいつからか、欲を出すことが怖くなっている。僕が欲を出した時、完全なメンヘラになってしまうことは分かっている。相手を無視した狂った欲望が相手に向かい始める。これで何度も失敗してきた。そして、これを持った瞬間に対人恐怖みたいなものが湧き上がってきてしまう。

ナンパはその欲と対人恐怖との戦いだ。ここから抜ける道はどこにあるのか。そう思いながらやり続ける。最近、漸くそこから抜ける道が見つかり始めてきた。

“呪詛がとどく世界はここじゃなかった。世の中にはクズしかいないどころか、俺しかいなかった。小さくなってがんじがらめに身動きがとれなくなってしまっている人間たち。”/ ギャルには人権なんてない – 性とナンパについて渋谷で考えた

世の中にはクズしかいないのではなく、自分しかいない。街の中に立って、自分の中に生まれてくる他人というものを感じられたら、それだけで幸せなのだなと最近思う。そのとき、ふと目にとまった美しい人に声をかけたくなったら、声をかければいい。
そのとき、自分自身の彼女への関心が、水のように流れる、透明な、純粋な関心が、彼女の心の中にまで入り込む。何を言えばいいのか、なんてことは考えなくてもいい。話したいことが心の中にすらすらと浮んでくる。そういうナンパが出来ればいいなと思う。

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傾聴、或いは、ナンパをしながら、カウンセラーとしての話の聞き方を考えること。

ナンパや催眠術を教えさせて頂く中で、産業カウンセラーの講座を受講されている方は多い。僕も受講したことがある。ここでは徹底した傾聴が教えられる。いわゆる、カウンセラーぽい喋り方である、おうむ返しというやつ。
「今日、公園で散歩してきて気持ちよかったです。」
それに対して、
「気持ちよかったんですね。」
というやつ。

僕はスカウトを始めたとき、丁度この講座を受講していた。この傾聴というやつ、やってみると分かるけど、不自然である。これをやってみると、いわゆるカウンセラーと呼ばれる人たちの不自然な会話の仕方が出来上がる。僕は好きではない。

ただ、使えないわけではない。使えないわけではないけど、この傾聴の教え方は、“それなりに話が聞けないわけではない、そこまで魅力的ではないカウンセラー”を量産するための教え方なのだなという印象を、受講しながら持った。

相手の話している言葉だけに重点を置くとおかしくなる。「気持ちよかった」という一つの言葉でも色々な気持ちよさがあるし、それに至る背景もある。そういうものが身体動作から表れている。下手におうむ返しだけされると腹が立つ。「気持ちよかった」という言葉の裏のイメージを捉えた上で、「気持ちよかった」と返してもらえれば嬉しいけど、そういうことは簡単なことではない。

ちょうど僕はスカウトで、延々と無視されていたので、言葉での応答は普段の仕事では活かせなかった。ただ、相手に応答するというのを意識しながら声をかけ続けているうちに、なんとなく身体動作で応答していくということを覚え始めた。

そして、そのためにはトランス状態に入らないといけない。それなりに深いトランス状態に入ると、自然と意識した対象に同調していく。結局は、同調のきっかけになるということだけど、その同調の中で無言の相手に言葉をかけていく。無言の彼女に、こちらは言葉で応答するという形になる。

言葉の重要性というものを最近考える。ずっと僕は言葉よりも身体的な感覚によって他者と交わるということに重点を置いてきた。

しかし、言葉というのはやはり無視できない。最近、詩をずっと読んでいるけど、やはり言葉によって、広がっていくイメージというものはある。その言葉を身体的な同調を通じて、相手の今の心情に応答するという形で投げかけることが出来れば、綺麗な傾聴の形を、無視している相手にも作ることが出来る。

大事なのは、人は他人の言葉によって何かを考えるということ。押しつけてはいけない。だから、話し手は、相手にとって、読み易く、想像し易い詩のようでなければいけない。それが人の話を聞くということ。

最近、暇さえあればずっと詩を読んでいる。僕は以前、大学でフランス文学を勉強していた。そのときはずっと本を読んでいた。それから、ナンパとか、催眠とか、カウンセリングとかをしだした。以前ほど、本は読まなくなっていた。言葉を重んじていたのが、段々と身体性に重点を置くようになって、また改めて言葉に重点を置くようになっている。
シンプルに、自分の身体に添えるように置く言葉。相手に心地良い空想をしてもらうための装置としての自分。自分が詩になること。美しいカウンセラーは詩的だと思う。

好きな詩を引用しておきます。
よかったら読んでみてください。
こういう詩を読むだけで、恋愛について色々な思いを馳せることが出来ると思う。
失恋した人にとっても、今好きな人がいる人にとっても。

『サアディの薔薇』ヴァルモオル夫人

この朝(あした)きみに薔薇(そうび)を捧げんと思ひ立ちしを、
摘みし花むすべる帯にいとあまた挿み入るれば
張りつめし結び目これを抑ふるにすべなかりけり。

結び目は破れほどけぬ。薔薇(ばら)の花、風のまにまに
飛び散らひ、海原めざしことごとく去つて還らず。
忽ちにうしほに浮びただよひて、行手は知らね、

波、ために紅(くれない)に染(そ)み、燃ゆるかと怪しまれけり。
今宵なほ、わが衣(きぬ)、あげて移り香を籠めてぞくゆる……
吸ひ給へ、いざわが身より、芳しき花の想ひ出。

身体の感覚を大切にする

ドトールでおばさんとすれ違った。こちらのことを全く見ていない。ぶつかる。おばさんは何も言わずに去っていく。そして、また別の座っている人にぶつかる。人生がうまくいっていない人はどんどんこうした身体の感覚を失っていくように思う。

目の前に何があるのか、目の前の人がどういう雰囲気でいるのか、そうしたことを敏感に感じ取って、素直に反応することが出来なくなる。そういった身体的な感覚の欠如した人を見ると危険だなと思う。

それは単純な会話にも表れる。聞こえているはずなのに、相手の言うことを無視して過ごす。時間の流れの中に無視した言葉は消えて、そのことはなかったかのように次の時間が流れていく…はずはない。流れていくものをきちんと捉えていくことが出来なければ、他人と関係を結ぶことはなかなか出来ないだろう。

僕はナンパを人に教えさせてもらっている。ナンパを教えることというのは、身体的な感覚を鋭敏にしてもらうことだと思っている。

ナンパを初めてする人は、知らない人に声をかけれても、それに対する相手の反応にきちんと反応することは出来ないだろう。話すことで精一杯で、色々な見落としをするはず。会話、表情、歩くスピードなど…相手の全ての反応。言葉の切り返しだけではなく、ちょっとした表情の変化もまた反応として捉えていき続けることで、ナンパは成立する。

このとき、自分の中には何一つ答えなどない。相手の反応の中に答えがある。

最初は他人の反応が全て、自分への攻撃のように感じられる。きっと、ドトールでぶつかってきたおばさんも僕のことが怖かったのだろう。でも、僕は何も、彼女に危害を加える気はない。きちんと相手の反応を見て、それに対応すればいい。

催眠術をかけるのが下手な人を見ていても思う。かかる人は一切攻撃する気などないのに、怖がっている。怖がって、相手の反応など見ずに失礼なかけ方をするから、相手が嫌悪感を示し始める。

でも、実際にその身体的な感覚を渋谷の雑踏の中で保ち続けるのは難しい。
それぞれが他者を恐れて攻撃性を帯びている中で、冷静でいることが出来ればナンパが出来る。
どう働きかけるかよりも、そういう、どうやって人々の雰囲気を身体で感じ取って、反応するかの方が大事だ。

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ナンパを通して考える、人間関係、自分を掘り下げるということ

ツイートしたもののまとめ。
トランスを巡って、催眠や声かけについて書いたような気がしたので、少し変えてまとめてみた。
長いし、色々付け足してという感じだからちょっと読み辛いかもしれないけど、関心が続く限り読んで頂ければと思います。

ナンパ師のクラトロさんが以下のツイートを気に入っていると言ってくれたので、改めて考え直してみたことが発端。

“人を信用するということは、相手に心を預けるということは、その相手にいつか心をグチャグチャにされるかもしれない可能性を与えること。心がグチャグチャになったことがないから、分からないのだろうか。”

僕は自分も含めて、ナンパ師は人間関係への依存症を持っている人が多いと思っている。
共依存とは少し違うかもしれない…。
だけど、共依存を回避するための、共依存になり易い人の表面的な解決策の一つであると思っている。

ナンパ師はチャラチャラしているおかしい人だと思う人がいるかもしれない。
どんなにチャラチャラしているナンパ師であっても、人間関係というもの、他人というのものに敏感で、それを隠してナンパをしていることが多いと思う。
対人関係において、ある種のスタイル(この場合はナンパ)を固持するということは、その人の対人関係への臆病さを表していると思う。
そのナンパ師の繊細さを見つめたときに、彼らが怖いもの、気が狂った存在、というよりは、他者というものについて考えをこじらせてしまった愛おしい存在だという認識に変わる。

だから、ナンパ師同士の会話はとても思いやりに溢れている。
偶に頭のねじが飛んでおかしくなってしまった人もいるけれど、思いやりがあって、人見知りで、引っ込み思案で、だけど向上心があって、真面目な人が多い。

多分、そういう感覚を持った人だから、先のツイートを気に入ってくれたのかもしれないと勝手に妄想している。
ナンパはある意味、信用させるゲーム、クラトロさんの言葉を借りるならスポーツだ。
自分は信用しない。だけど、相手に自分のことを信用させるスポーツ。
たくさんの人をぐちゃぐちゃにして、自分の心の強さを固持するスポーツ…と言ったら聞こえは悪いけど、そういう側面もある。

フェラが上手いからとりあえずキープする。
話は合わないけど、可愛いからとりあえずキープする。
貢いでくれるからとりあえずキープする。
社会的なステータスがあるからとりあえずキープする。
(キープは彼女にはしないけど、関係は続けるという意味。
キープの仕方についてはクラトロさんの都合のいい女性をキープする6つの方法を見て下さいw)

このキープがナンパ師の人間関係の依存症を露骨に表している行為だと思う。
相手に信用させて、自分は信用しないこと。
自分が信用する気のない相手、心を預ける気もない相手に、心を預けられるのは気持ちがいい。
そういう相手を複数持てば、人間関係への依存をリスクなく保つことが出来る。

そう考えると、ナンパは複数の人間を対象とした共依存だといえるだろう。
(普通、共依存というと一人の異性にどっぷり依存するような感じ。)

それだけ、人を信用するというのは怖いことだし、難しいことだと思う。
でも、それでも、人を信用したり、心を預けたりすることは素晴らしいことだと思う。
預けてダメだったら悲しい。でも、預けたいと思ったのなら預けた方がいい。
それでダメだったら、色々学びがある。

先にも書いたけど、ナンパは…僕の中では、その喪失感を回避するものだった。
複数の人に少しずつ心を預けておけば、悲しい思いをすることはない。
可愛い女の子、社会的なステータスのある女の子を連れていれば、周りにも羨ましがられる。

それはそれでいい。
だけど、ある人と時間を過ごして、「じゃあね」と作った笑顔で見送って、その子の姿が見えなくなったら、その子と過ごしたことで湧き上がってきた、自分は理解されていないという寂しさを癒すために別の女の子に電話する。
そういうことに疑問を感じて、疲れていく。

ナンパをディスっているわけではない。
それは技術的にも面白いし、やるのも精神力がいる。
だけど、本当に精神的に辛いのは、身を預けた人に裏切られること。
でも、その辛さを味わうのもなかなかいいものだなと思うようになってきた。
自分が好きなら別にそれでいいというか。

これはナンパをしない人にとっては当たり前のことなのかもしれないけど…。
でも、今でも、声をかけることも、人を口説くことも好きだし、それが巧妙に出来たときは嬉しい。
その力を、この人に向けたいと思った人に注ぎきれたら本望だと思う。
そうして、没頭できる対象に力を注ぎきること。
その過程の中で自分の心を深く掘り下げて、自分が何を思っているかを感じようとしたり、相手に深くえぐられて、傷が深くて動けなくなったりする中で、さらに自分の心の中が見えるようになってくる。
自分の思っていることがもっとよく見えるようになったり、傷が癒えたりすると、今まで感じたことがないくらい、自分の心の中がよく見える。
もっと深くまで潜り込んでいけるのだという感覚を得ることが出来る。

それが自分を深めることで、そうすることで更に自分が入り込めるトランスを深めることが出来る。
そのとき、今まで未知だった自分に気づくことが出来る。

催眠は一時的にそれを可能にする技術だ。
心の中をより深く知るための方法として、一度催眠で誘導されてトランスに入ることが出来れば、あとは自分で掘り下げていける。
僕はそうして、自分の入れるトランスを深めていった。

そして、トランスを深めれば深めるほど、さらに人に上手く催眠状態=トランス状態に入ってもらえるようになったりしてきた。

自分で体験したことがなければ、相手をトランス状態に導くことは出来ない。もし、導いたとしても、それは相手が勝手に入っていっただけで、誘導とは言い難いと思っている。これは術師によって意見が分かれるだろうけど。

その場合、その人を優しく、ゆっくりと、心地良いトランス状態へと導いている実感がないだろう。
勝手に相手が合図とともにどこかに言ってしまったような感覚。
ラポールが欠如した感覚。
それは目の前の相手が黙って、目を閉じていても分かる。

だから、もっと深いトランス状態に、いつでも入り込めるようにならないといけな